とある日本人『奇跡講座』学習者の困惑

『奇跡講座』は難しい、でも楽しい!

はじめに ②データ捏造疑惑

『奇跡講座』はキリスト教(と言ってもいろいろだけど、まあいわゆるキリスト教)の、非二元論的方向性のアップデート版だ(と私は思ってる)。

しかし、キリスト教的欧米文化を生きたこともなく、御父もイエス聖霊も信仰したことのない(あるいは拒絶したことのない)私には、アップデートすべき元のデータが、まるで海外ドラマや小説の世界のように思える。

いや、それどころか、元のデータ(キリスト教)を、

「こんな感じかな」

と、捏造している可能性がある。

しかもそこには、西洋文化に対する誤解やコンプレックスが、間違いなく投影されている。また私の頭の中では、いわゆるスピリチュアルとキリスト教が微妙に混同していた時期があり、その間違ったイメージを投影している可能性もある。元のデータが正しくないのに、アップデートが正しくできるわけがないではないか。

 

だから私は、『奇跡講座』を学習しながら、御父とか聖霊とか口にするとき、日本人が洋服を着るときに、どう頑張っても欧米人のようには着こなせないというようなもどかしさを感じてしまう。そこそこ着慣れてはいるけれど、洋服が私のための服だとは思えない。あるいは、どこかで、洋服を着て椅子に座っているのに、靴は脱いでいる、というような、中途半端な理解をしているのではないかと不安になるのだ。

 

そんな私が、『奇跡講座』を真に理解することは、果たして可能なんだろうか?

 

もっとも、『奇跡講座』を理解することは不可能かもしれないけれど、理解することを求められてはいない。教義的理解と実践は両輪で回っており、実践をおろそかにしなければ、理解は自然とついてくる。私も、まがいなりにもそこそこ実践を重ねてきたつもりだし、たくさんの恩恵を受けているので、そこを疑うことはない。ただ、少し進んだところから振り返ってみて、

「あー、ここで感じた違和感は、こういうことだったのか」

と、思うことをまとめてみたいと思っている。