おまけ ショート・ショート
<割れたコップ>
割れたコップを目の前に、『奇跡講座』的自我は、
「これを割ったのは自分だ」
と言った。
なぜなら『奇跡講座』的自我にとっては、行為者がいなければ結果がないからだ。
「私が、コップを、割った」
そして、割ってしまった罪悪感を抱えて逃げ回る。
しかし、私の自我は、
「なんで割れたかわからない」
と言って泣きじゃくる。
だって本当にわからないのだ。
気がついたらコップは割れていた。
私の自我にとっては、目の前に現れる状態とは、そのように「なる」ものであって、「する」ものではない。
割れていたものは、割れていた。
なぜかなんて、考えたってわかるもんか。
そして、どちらも、
「割れてないよ!」
という、神と自分をつなぐ聖なる声が耳に入らない。
いや、入れようとしない。
なぜなら、どちらも、罪だ、苦だと言いながらも、その実、
「そのコップ、割れたままにしておきたい(神から分離して自分が神でいたい)」
と思っているからだ。
そしてそう思う理由について、『奇跡講座』的自我は、
「罰を受けるのが怖いからだ」
という。
私の自我は、これに対しても、
「なんでかな」
という。
なんでか知らないけど、片付けたくない。このまま割っておきたい。
ときどきキラキラ光って、ちょっと綺麗だからかもしれない。
<わからない>
ときどきキラキラ光って綺麗だからと、うかうか破片を眺めていたら、私は本当に追い詰められてしまった。破片もまったく光らなくなった。ただの危険ゴミだ。
なんで割れたか、なんで片付けたくないのかわかないと、ぐるぐるしているうちに、ついに、
「生きている意味がわからない」
と言い始めた。
もう、何もかもがわからない。
こうなったら、
聖なる声の、
「割れてないよ!」
という言葉を聞くしかないのだが、
「そういう目に見えないものは、わからない」
と言い続けてきた私には、その声も聞こえなかった。
しかしさすがの私も、心のどこかで、
「これはまずい」
と思ったのだろう。たぶん。
そしてようやく私に聞こえた声は、かつての宣教師のように、外国語訛りの声だった。
「アナタハ神ヲ信ジマスカ?」
「ど、どちらさま?」
「聖霊デス」
<聖霊 その1.>
「神はいる」
「愛はある」
と、はっきりと言い切るこの押しの強い声にも、私は、
「神とか愛とか、わからない」
と対抗してみたが、その声は、引かなかった。
「このテキストを読んで、赦しを実践すればわかります。ここにわかるように書いてあります。読んで、赦す、これを繰り返せばわかります」
「いえこの本、論理的に見えるけど、前提(神はいる)の正しさが証明できてないですよね」
「では、いないと証明できますか?」
「え?」
「神はいないと、証明できますか?」
「……」
「どちらも証明はできないのです。する必要もないのです」
「でも、神はいる、と、つまり、りんごがある、みたいに言うのも、なんか違う気がしませんか?」
「もちろん違います。でも、いるか、いないか、というなら、いるのです」
「えー、なんかよくわからない」
「あなたはいるんですか?」
「え、いますよ?……あ、いません、いないんだったわ」
「そういうことです。いないけどいるんです。あなたがいるのなら、神はいません。あなたがいないのなら、神はあなたと一緒にいます」
「うーん」
「そもそも言語で表現できないことを、言語で解析しても意味はないんです。それより神はいないと言い張ってここまでやってきて、今、そんなに辛いのなら、いるという方に賭けてみても良いのではないですか」
「でも、いないものをいると信じて、人生を賭けて、変な方向に行ったら」
「あなたそれ以上、変な方向に行けるんですか?」
「……(けっこう、一杯一杯)」
「信じてごらんなさい。あなたにはわからないことをわからないと認めて、わかりたいと願う、それを信仰っていうんです」
宣教師みたいな聖霊は、根気強く私を説得した。
<聖霊 その2.>
彼はキリスト教の言葉を使うし、耳慣れないくらいに論理的なので、日本人である私には合わないと思うことも多かった。
「御父はあなたを愛しています」
「いや、なんかその、愛していますっていうのがこう、肌に合わないっていうか」
「『月が綺麗だね』とでも言えば肌に合うんですか」
「いや、それはちょっと意味が違います。でもまあ、それもそうなんです、愛っていう言葉が、ちょっとフワッとしてるんですよね、文学的というか、エンタメ的というか。現実の生活のレベルで使わないんで」
「あなたが昭和生まれだからじゃないですか」
「でも、それよりは御父って人じゃないのに、人じゃないものに愛されるって、ありえないっていうか」
「じゃ、あなたは人なんですか」
「いえ、違います、神の子です」
「じゃあ、いいじゃないですか。神は神の子を愛してるんです。何がいけないんですか」
「神が主語に立つのが嫌なんです。神は、人間みたいなことをしないっていうか」
「もちろんしません」
「でしょ?神はレベルが違うので、愛するとか愛されるとかっていう親交は起こり得ないというか」
「神と神の子はレベルが違うのですか」
「違いません」
「あなたは……」
「神の子ですね」
「じゃあ、いいじゃないですか。御父と存分に親交を深めてください」
「(……なんかケムに巻かれてないか?)」
<コップは割れてない その1.>
それでも彼の説明は、神がいる、というところだけ、エイッと飲み込んでしまえばわかりやすかったし、出家しろとか何時間も座禅しろとか菜食しろとかお酒はダメとか言われなかったので、
「これならなんとかついていけるかも」
と思った。
それでもやはり現実に行き詰まり、恐怖を選択し続けてしまうと、聖霊の声に対してこう言いたくなる。
「私は御父を裏切ってない。私の罪悪感は聖霊の言う罪悪感とは違う。私は罪悪感があって怖いから帰らないんじゃないんです、なんで自我になってるのかわからないから、帰れないんです!自我になった原因が違うんですよ。私の『奇跡講座』の学びが進まず、赦しが進まないのは、そこんとこが違うからなんじゃないかと思うんですよ」
「だからそれは物語だって言ってるでしょう。あなたはわからなくて良いことを、わからないって言ってるんです。私が言ってるのは、自我であるあなたはいない、ということです。自我になってなんかないんだから、どうやって自我になったかは、どうでもよろしい」
「えー」
「いいですか、コップは割れてないんです。誰かが割ったか、自然に割れたかはどうでもよろしい。割れてないんです。なんであなたは大事なところはわからないと言って曖昧にするくせに、そういうどうでもいところだけ、論理的になろうとするんですか」
「……」
「コップは割れてない。それなのに『コップが割れている、なんでだろう』って座り込んで泣いてるのは誰ですか」
「私です」
「そうです、大体、あなた以外に誰もいないんですから」
「それもそうですね」
「もしあなたが、今の分離の状態から抜け出したいなら……私の言葉で言えば、天国に帰りたいなら、あなたがすることは、コップが割れた原因について考えることや、なんでコップを割れたままにしておきたいんだろうと考えることじゃありません。
コップは割れていないという私の声を聞くこと、コップは割れていないというところから物事を見直すことです」
「えー、わかんな……」
「そのままでいいんですか」
「……」
「そのまま自我として、この世界を回し続けていく気力があるんですね」
「ないです、ごめんなさい」
<コップは割れてない その2.>
「あなたにはいくつかの選択肢もありました。
もしあなたが、自然崇拝の多神教徒的な日本人としてのアイデンティティを全うするなら、自然の美しさの中に神の愛を見て、そのまま溶けていけたでしょう。
インド哲学の複雑さに怯まず、かつ瞑想と修行に励めば、『ない』の向こう側の真理に触れることができたでしょう。
でもあなたが、両方ともわからないっていうから、中途半端に西洋的物質主義を信じてきて、目に見えるものしか信じないと言い張ったあなたに、私がこうやって、西洋的学問である心理学を駆使しつつ、あなたが受けた、本来の国語的ではない国語教育の基盤である西洋的『ある』『ない』の論理を使って、説明してるんです。あなたにはこれしか武器がないんですよ。
あなたが疑問に思っていること、つまりコップはなぜ割れたのか、なぜ割れたままにしておきたいのか、これはあなたが神の愛になればわかることです。
もっとも、わかるというのは、あなたが思っているわかるではありませんけどね」
「それは、どういう……」
「だからそれは、必要ないって言ってんでしょうが!」
「はあ、でもせめて、なんで『自我になっているかわからない』と思うのか、その理由だけでも納得したいなと……」
「それがわかったら、赦すんですね」
「前向きに善処します」
「それ、自然の摂理に対する敬意をすっかり失った近代日本人の、ただ無責任なだけの性質をよく表した返答ですよね。
しょうがないなあ、じゃ、ちょっと回り道になっちゃうけど、少し自分の国の信仰の体系がどうなってるか勉強なさい。自分の足元がきちんとしていれば、それが物差しになって、相手と何がどう違うのかわかるでしょう。そもそもあなたはぼんやりと日本人やってるから、そっちも曖昧なんですよ。
この本とこの本を読みなさい。あと、テレビはこれとこれを見て。あ、この人と話しなさい、あとこのブログ……」
「多い……こんな難しいのわかんない……」
「そのままでいいんですね。そのまま自我として、この世界を回していく気力があるんですね」
「……やります、教えてください」
今、こんな感じです。