2022-02-27から1日間の記事一覧
書いてみたら結構な量になりましたので、少しずつ分割してお読みいただくのがいいかと思い、ブログ形式でアップしたのですが、ページめくるの面倒だ、という方がいらっしゃるかもと思い、こちらでスクロールで一気読できるように、全部の内容をこのページに…
<割れたコップ> 割れたコップを目の前に、『奇跡講座』的自我は、 「これを割ったのは自分だ」 と言った。 なぜなら『奇跡講座』的自我にとっては、行為者がいなければ結果がないからだ。 「私が、コップを、割った」 そして、割ってしまった罪悪感を抱え…
私の長い愚痴にお付き合いいただき、ありがとうございました。 恥ずかしながら、ろくな学びをせずにいい歳になり、歴史も文学も、そして哲学にも宗教にもほとんど興味がないまま、『奇跡講座』という分厚い本に導かれることになり、七転八倒した十数年であり…
<聖霊とは私である> そして聖霊とは、 「分離は起きていない、私は無辜である」 という正しい自己認識の、私である。 分離を信じ、自分と体を同一化させた私は、この体を存続させるために、罪を冒し続けなければならない。これを何とかするには、自分は体…
<本心> さて、そういう状況が整った時に、ようやく、自分の本心に気づくことになる。 恐怖を選ばないという、ただそれだけのことができない。 ほんっとうにできない。 訓練されていない心は、脊髄反射で恐怖を選ぶ。選び続ける。 遥か太古の遥か彼方での分…
<神の子として立ち上がる> そして1項目目、「御父がわからない」。 私は、超越的な存在に関しては、仏教的な「ない」で語るのに慣れているので、神を実在するかのように語られることに違和感があり、 「なんか嘘くさい」 と感じる。 また私にとっての神と…
<帰れない> そして2項目目の「罪悪感がわからない」 私の自我の物語は、分離後から始まっており、それ以上遡ることはしない。 そして日本人ぽく、わからないことはそのまま受け入れる。 なので『奇跡講座』的な分離前の物語を語ることは、たとえそれ自体…
<『奇跡講座』は、「ある、ない」で語る非二元論だ> まず最初に、3項目目に取り上げた、「『奇跡講座』は非二元論なのか」という問題から。 私は『奇跡講座』が非二元論であることに自信が持てなかったが、その違和感の原因は、「ない」だけで語る仏教と…
そろそろ愚痴のまとめに入ろう。 <立ち位置を決める> 父的神と子の関係は、超越的存在と、それを裏切った私という物語で存在している自我との関係である。 この自我は、父親に対する子のように、一人前の存在として自己を立ちあげている。 だから『奇跡講…
<聖霊と仏性> 聖霊とは自分のことであり、聖霊を選ぶということは、自分に対する概念を変えるということだ。 これを踏まえて、改めて聖霊とは何か。 思い起こされるのが、「仏性」である。 仏性とは、Weblio辞書によると、 人や生き物の内奥に存在すると考…
<聖霊を選ぶということ> 聖霊も私も、実体ではない。概念である。 そして私とは、「私とは物質であり、体であり、それが世界から切り取られて独自に存在することができると信じる概念」である。また聖霊とは、「私とは世界全体であり、また、世界全体が、…
<聖霊も私も概念> 聖霊がわからない直接的な理由は、母的神の子にとって、その代替になるような概念が存在しないからだと思う。聖霊を精霊と表記する人がいるが、それくらいに曖昧な存在だ。 勉強会やセッションでも、 「聖霊って何ですか」 と聞かれるこ…
さて、ここまでくると、『奇跡講座』が与えられたことについて、感謝こそすれ、文句を言おうという気持ちにはならなくなった。 ところが、最後の難関が残っている。 聖霊である。 御父もわからないが、聖霊のわからなさも大概だ。 聖霊とはどちらさまなのだ…
<ここが始まり> 日本人のくせに自然と一体化して溶けていく感性を失い、かといってキリスト教をはじめとする一神教には関心がない。 神との絆は完全に断たれている。 そもそも私の人生が、『奇跡講座』を学ばねばならないところまで追い詰められたのは、こ…
<日本人のくせに> しかもさらに残念なことがある。 本当は日本人の信仰は、私のように適当ではない。 私がそれを取り落としているだけだ。 なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる これは日本人の宗教観を表す歌として知られる、西…
<結局は、信仰心> さらにもう一つ、私が純粋な非二元とはなんだとか、『奇跡講座』の非二元論を不自然だとか、ぐだぐだと言う理由は、多分これが一番根本的で、ここまでの愚痴の全ての答えなのだが、私の信仰というものに対する姿勢が、世界で一番くらいに…
<too match> いろいろな事情が積み重なり、私は、神秘的なものを断定的に「ある」と表現することに違和感を感じる。 なので私は、『奇跡講座』の表現を過剰だと感じてしまう。 愛や真理や御父や聖霊や天国を、そういう名で呼ぶことが正確ではないと感じ、…
<ふんわりしててほしい> 『奇跡講座』には『奇跡講座』の、仏教には仏教の背景があって、同じ非二元論でもそれぞれの表現に違いが生じる。 そしてそれとはまた別に、これはもう全く学問的問題ではなく、私の個人的な思い込みなのだが、仏教的非二元論に対…