まとめ ③<帰れない>
<帰れない>
そして2項目目の「罪悪感がわからない」
私の自我の物語は、分離後から始まっており、それ以上遡ることはしない。
そして日本人ぽく、わからないことはそのまま受け入れる。
なので『奇跡講座』的な分離前の物語を語ることは、たとえそれ自体が一種の神話であり、比喩であっても、私にとっては罪悪感の捏造という感覚になる。だから私は『奇跡講座』的に罪悪感という言葉を使うとき、妙に偽悪的に感じる。
私にとって罪悪感に相当する感覚は、生き物ゆえの、生きたいという欲であり、その欲を満たすために他者から愛や物を奪おうとする(欠乏の感覚を投影する)業である。これは止めたくても止められない。生き物は、そういうふうになっている。
しかしこれは罪ではなく、苦なのだ。
そしてこれほどの苦しみを味わう私は、きっと自分には想像もつかないような罪を犯したのだろうと想像するが、この罪の感覚は、『奇跡講座』でいう罪悪感ではない。罪悪感とは自分が犯した罪に対して感じる気持ちのことだ。私が感じる罪の意識は、
「なんだかわからないけどごめんなさい、申し訳ないです」
という、憐れみを乞う気持ちなのだ。
つまり自分が犯した罪の罪悪感ゆえに、罰せられることを恐れて神の元に帰らないのではなく、自分には理解不可能である深い罪を負っているがゆえに、悪因悪果を重ね、分離を続ける自分を止めることができず、帰ることができないのだ。
私という自我はどこまでも、
「わからないからどうしようもない」
という論理でできている。
おそらく私が言いたかった一番の愚痴は、これなのだと思う。
「帰りたくないんじゃない、帰れないんだ!」
しかし、だからなんだというのだろう。
帰らないも帰れないも、自我の意識の言い分で、自我の意識は『奇跡講座』的にも私的にも、存在しない。存在しないものは、正しくもないし間違ってもいない。
では『奇跡講座』は、神を裏切った私、という物語を語ることで、私に何を言おうとしたのか、ということだけに意識を払えばいい。
つまり、分離は起きていない。
私は無辜である。
ということだ。