まとめ ①<立ち位置を決める>
そろそろ愚痴のまとめに入ろう。
<立ち位置を決める>
父的神と子の関係は、超越的存在と、それを裏切った私という物語で存在している自我との関係である。
この自我は、父親に対する子のように、一人前の存在として自己を立ちあげている。
だから『奇跡講座』は、一度立ち上がった自己に、
「あなたは神を裏切っていない」
ということ教え、その自己の責任において、神に対する恐怖を訂正させ、本来の、神と一つの神の子に同化させていく。
母的神と子の関係は、超越的存在(自然)と、その一部である私という物語で存在している自我との関係である。
この自我は、母に対する子のように、母との一体感を持っており、母との境界が曖昧だ。しかし、完全に一体であるという認識はない。中途半端な自我である。
父的神を誤創造し、自己を立ち上げた状態から自我が始まる『奇跡講座』の側からいうと、この状態は分離の後の二次的な解離になるが、母的神を誤創造する自我の側から言うと、立ち上げ以前の遊離の感覚だろうか。
このような曖昧な自我が、仏教的な空の思想に出会うと、
「あなたは産まれていない、あなたも、あなたを産んだ母も(つまり自然も)存在していない」
と教えられる。
私はこの両方を中途半端に、しかも(宗教的にも文化的にも)体験ではなく、知識だけで齧ってしまったので、どちらも「根拠がない」と感じた。そして、御父につながるための糸口である、父的神も母的神も見失った。
私の自我は、自分が抱える生きづらさに対して分離の責任を引き受け、赦しを乞うほど成熟していなかったし、ただ泣きじゃくって救いを求めるほど素直でもなかった。
だからと言ってそのままにしておくと、私はただの自我で終わってしまう。
それは困る。
それに懲りたから、こんな面倒なことを学んでいるのだ。
では、どちらの立ち位置を取るかとあえて言われるなら、まずは、母的神と子の関係の側に立つしかない。
神を裏切ったという「冤罪」を無理に信じるくらいなら、まだ、
「私は母的神から生まれたと錯覚している」
ということを受け入れる方が自然に思える。
だとすれば私は、この感覚から『奇跡講座』を、理解し直すしかないだろう。
最初に提示した三項目の『奇跡講座』に対する戸惑いは、互いに関連している。
ざっと見渡したところから、改めて問題点と解決策を見直してみようと思う。