スクロールで一気読み用
書いてみたら結構な量になりましたので、少しずつ分割してお読みいただくのがいいかと思い、ブログ形式でアップしたのですが、ページめくるの面倒だ、という方がいらっしゃるかもと思い、こちらでスクロールで一気読できるように、全部の内容をこのページにまとめました。プリントアウトにも便利かと思います。よろしかったらどうぞ!
◆ はじめに
<ご挨拶的な>
これは私が『奇跡講座』を学習する上での、個人的な愚痴である。
今までもことあるごとにいろいろな人にぐちぐち言ってきたのだが、あまりにもまとまりがなかったのでまったく伝わらず、聞いてくださったみなさまには大変ご迷惑をかけることになった。
すみませんでした。
お詫びに、ここにまとめることにした。
その中の何人かには、真顔で、
「それ、考える必要ある?」
と聞かれた。
「え?私のこと?」
と思った方、安心してください。
あなただけじゃありませんw
結構、何人もいます。
確かに、考えなくてもいいことかもしれない。
でも気にかかるんだから、しょうがない。
愚痴の内容は、
「キリスト教と縁のない私に、『奇跡講座』がわかるわけない」
という話である。
これを考え始めたら、そもそもキリスト教徒とはどんな信仰なのか、それを信じているのはどういう人たちなのか、それに対して私はこれまで何を信じてきたのか、いや、そもそも信じるとはどういうことかと、想像以上に面倒なことを調べたり考えたりしなければならなくなった。
これまでそういう方面の勉強をしてきたわけでもないので、間違っていることも多々あるだろうと思う。
ただ私としては、『奇跡講座』の学習を続ける上での疑問が、私なりに一応解消したように思うので、もし同じような問題に悩んでいる方がいたら、さらに一緒に考えていくためのたたき台くらいにはならないだろうかと思い、まとめてみることにした。
もし何かお気づきの点があれば、ご指摘いただけるとありがたい。
(挫けやすいので、できれば、なるべく優しくお願いします……)
<データの捏造>
『奇跡講座』はキリスト教(と言ってもいろいろだけど、まあいわゆるキリスト教)の、非二元論的方向性のアップデート版だ(と私は思ってる)。
しかし、キリスト教的欧米文化を生きたこともなく、御父もイエスも聖霊も信仰したことのない(あるいは拒絶したことのない)私には、アップデートすべき元のデータが、まるで海外ドラマや小説の世界のように思える。
いや、それどころか、元のデータ(キリスト教)を、
「こんな感じかな」
と、捏造している可能性がある。
しかもそこには、西洋文化に対する誤解やコンプレックスが、間違いなく投影されている。また私の頭の中では、いわゆるスピリチュアルとキリスト教が微妙に混同していた時期があり、その間違ったイメージを投影している可能性もある。元のデータが正しくないのに、アップデートが正しくできるわけがないではないか。
だから私は、『奇跡講座』を学習しながら、御父とか聖霊とか口にするとき、日本人が洋服を着るときに、どう頑張っても欧米人のようには着こなせないというようなもどかしさを感じてしまう。そこそこ着慣れてはいるけれど、洋服が私のための服だとは思えない。あるいは、どこかで、洋服を着て椅子に座っているのに、靴は脱いでいる、というような、中途半端な理解をしているのではないかと不安になるのだ。
そんな私が、『奇跡講座』を真に理解することは、果たして可能なんだろうか?
もっとも、『奇跡講座』を理解することは不可能かもしれないけれど、理解することを求められてはいない。教義的理解と実践は両輪で回っており、実践をおろそかにしなければ、理解は自然とついてくる。私も、まがいなりにもそこそこ実践を重ねてきたつもりだし、たくさんの恩恵を受けているので、そこを疑うことはない。ただ、少し進んだところから振り返ってみて、
「あー、ここで感じた違和感は、こういうことだったのか」
と、思うことをまとめてみたいと思っている。
<違和感の土台>
「キリスト教の信仰の経験がない私が、『奇跡講座』がわかるわけないじゃないか」
と、私は思っている。
それなのになんとなくここまで、どうにか『奇跡講座』をやってきたような気分になっているのは、いくつかの理由がある。
日本人的無宗教というのは、宗教心がないということではなく、なんでもありがたく思え、なんでも都合よく信じる、ということだ。
そして本質的には日本古来からの神道の影響で、自然信仰の多神教徒であり、八百万の神が生活に溶け込んでいる。
だから神様が外国からおいでになって、一柱や二柱増えても、全く気にしない。
神社でお宮参りして、教会で結婚式して、お寺でお葬式をする。ご来光も落日も拝むし、ナマハゲやトトロも受け入れる。だから『奇跡講座』も、
「へえ……」
という感じでコレクションの一つにしてしまった。
二つ目は、思想的には仏教徒だということ。
日本の神仏融合の歴史は長く、色即是空空即是色、という仏教系の非二元の思想が根付いている。『奇跡講座』も非二元論だから、ここは文句なく相性がいい。なので、
「世界はない」
と言われると、
「うん、なんか聞いたことある」
という気分になる。
ただし、この仏教も真剣に信仰しているわけではない。そもそも日本の仏教は、極東のどん詰まりで神仏融合した、大変特殊で懐がガバガバに深いものになっている。その上、日本の普通の家庭に生まれた私が触れてきた仏教は、もはや宗教ではない。ゆるーい文化、あるいは慣習だ。
三つ目は、『奇跡講座』を始める前に、ニューエイジのスピリチュアルを齧っていたこと。
この時にやっぱり、
「へえ……」
という感じでコレクションの一つにしてしまった神的概念に、いわゆる「ワンネス」がある。ついでに守護霊とかエンジェルとかソウルメイトとかというのも、それに付随していたのだが、それらはちょっとキリスト教っぽい。スピリチュアルも、キリスト教の一元論的アップデート版なところがあるからだと思うが、私にとっては本家よりもこちらが先になっている。私にとってはこれらの概念が、『奇跡講座』の、御父、キリスト、聖霊などの概念との橋渡しになった。
四つ目は、私が生まれた時代の価値観が、キリスト教的であること。
自称無宗教者で無自覚に多神教徒で何気に仏教徒の私だが、生きることに対して、
「こうするべきだ」
と与えられた価値観は、欧米的だった。
個を尊重し、個性を大切にし、自己の能力を伸ばし、論理的に考え、Yes/Noの二元思考で自分の意見をはっきりと述べ、責任の所在を明確にし、合理的・科学的に世界を分析し、善と悪とを区別し……
文明開化から200年、もはやそれはヨーロッパ中心主義なのだと言われなければ気づかないほど、これらの思想的基準は私にとって目指すべき方向性として認識されていた。
ただし、これがキリスト教的であるということはあまり意識されておらず、その土台となる神への信仰という核心は抜け落ちている。
つまり、神様を信じている人たち(あるいは信じていた人たち)の目指すべきあり方を見本としているが、それを支える神の愛のことは何も知らない。
<困ったこと、四つ>
自称無宗教者で無自覚に多神教徒で何気に仏教徒で、スピリチュアルとキリスト教を混同し、生き方は神抜きでキリスト教的であるべきだと思っている私が、『奇跡講座』を学ぼうとした結果、いくつか困ったことが起きた。
1. キリスト教的神との接点がなさすぎて、御父がイメージできない。
2.「御父から分離して 偶像の神を誤創造した」という自我の物語に、身に覚えがない。だから罪悪感も「原因はそこじゃない」と言いたくなる。
3. 『奇跡講座』と仏教がぐちゃぐちゃになり、非二元論自体がよくわからなくなる。
4. 聖霊がなんだかわからない。
だいたいこんなところだと思う。
これらの問題を順次、みていこうと思う。
◆ 1. 御父ってどちらさま
<概念の神>
『奇跡講座』を学んでいて一番困ったのは、
「御父って、どちらさま?」
である。
『奇跡講座』は、キリスト教の体系を訂正することによって、学習者を非二元的な体系に導くように書かれている。『奇跡講座』中の御父との関係性も、キリスト教的御父との関係性ありきで語られる。
このキリスト教的御父は、キリスト教に縁のある人にとっては、キリスト教を信仰していようといまいと、実感を持ってその人の心に「存在」しているだろう。そして『奇跡講座』は、キリスト教的御父に対する二元性の投影(私たちを愛し、罰する神)を訂正して、御父とは愛だけの存在であることを学ぶためのカリキュラムである。
しかし私は、そのキリスト教的御父について、ほとんど知らない。
なんの自慢にもならないが、一神教になんの関心もなかったのだ。
しかし全くわからないと『奇跡講座』が読みにくいので、訂正すべき対象の代替として、スピリチュアル系のワンネスとかサムシンググレートとかを据えてみた。
いや、勝手にそうなってしまった。
ほかに足がかりがなかったのだから仕方あるまい。一元論や非二元論のスピ系の物語の中で語られるこれらの概念は、むしろ『奇跡講座』の御父に近い。
しかし私にとって、それらはあくまでも概念だった。
「御父は神の子を愛している」
と言われても、概念に愛されてもなあ……という気分になる。いや、そもそも「私」が概念なので、概念にしか愛されようがないのだが、それだと実感が湧かない(概念のくせに実感とか、おかしなことを言っている自覚はあります)。
ついでに言えば、ワンネスとかサムシンググレートとかも、中途半端に齧っただけだったので、単なる知識としてしか理解しておらず、
「まあ、ありかもしれないけど……」
という感じで、むしろ胡散臭いと思っている。
だもんだから、それを足がかりにして理解した御父が胡散臭くなる。
御父を胡散臭く感じるので、御父の愛も胡散臭くなる。
<母なる神>
私はキリスト教的御父と、あまりにも縁がなかった。
では、その代わりに私に縁があった、全ての源と言える概念は何か。
それは自然だ。
日本人である私は、文化圏的には、自然崇拝の多神教徒だ。
多神教徒は、自分自身を他の動植物と共に自然の一部だと思っていて、自然を自分の源だと思っている。つまり、自然=神である。
『奇跡講座』に出会う前は、私もこの考えを採用してきた。
もっともそれは、自然が自分の源であるという考えが科学的で合理的だと感じていたからで、多神教徒であることを自認していたわけではない。
そして、多神教は母性原理的な性格が強い。
「母なる自然」
の母という言葉は、科学的な意味での全ての命の大元という意味では比喩だが、そこに生命誕生の神秘、という意味が含まれれば、それは一神教的な全ての源、御父と同義になる。
多神教の神は自然の中にたくさんいるが、御父と同じ意味での源たる神は、母的だ。
<母的神と父的神>
私にとって神とは、母なる自然のことを指す。
この母的神と子の関係は、父的神と子との関係とは性質が違う。それはそのまま、母と子、と、父と子の関係の違いだ。
そりゃそうだ、私たちは親との関係を自分を創った神に投影している。
母的神とその子の関係は、母と乳飲み子のように、分かれているようで分かれていない。
私は母の80億人の人間の子の一人で、その他の動植物たちや、空や海や山や川とも兄弟であり、共に母の掌の上で転がされている。各人の出来不出来はあまり問われず、どの子もわりと一緒くたに愛しまれ、ときに理不尽に罰せられ、育てられている。
それに対して、父的神とその子の関係は、個と個の関係であり、理性的だ。子は父に対して自己を立ち上げ、父はその生き方を鏡のように照らす。人間は、その他の動植物とは違う存在であり、父に恥じぬよう、責任を持った生き方を求められる……のだと想像する。
<母的神を赦す>
父的神と子の関係は、父と、自己を立ち上げた、自意識のはっきりした子の関係。
母的神と子の関係は、子沢山の母と、母と分たれ難い幼い子どもたちの関係。
このどちらの神も、『奇跡講座』的視点から見ると、つまり非二元論的に見ると、偶像の神である。自我の誕生と存在について、自我が信じていることを自我的に説明した物語の中で、自我の源として要請されたものだ。そして自我は誕生していないので、どちらも自我による空想である。
『奇跡講座』を実践する上で、偶像が父的か母的かは関係ない。
必要なのは、自分が捏造した偶像の神に対する投影を赦し、真の神(真理、愛)を知ることだ。
しかし『奇跡講座』は父的偶像の神用に書かれているので、母的神を自分の親として捏造したが、それを赦すための手段として『奇跡講座』を与えられた私としては、ところどころ納得がいかないことがあり、どこがどう違うのかをはっきりさせたいのだ。
そこがスッキリしないと、『奇跡講座』に対する信頼が曖昧になってしまう気がする。
<責任者、出てこい>
では、母的神に私が投影している誕生の物語とは何か。
母的神の子である私は、父的神の子たちのように、自己が確立していない。私は自然の一部として産み落とされ、生きて、死んで、自然の中に返っていき、そしてまた産み落とされる、という循環の物語を生きている。全ては神の計らいによって起こる「出来事(出て来る事)」であって、私の意志はそこにはない。
つまり母的神から発生した自我の物語は、自我の発生に対する責任の所在が不明瞭なのだ。
体としての自分が肉親である母から、自分の意志とは関係なく生まれてきたように、自我の出生に関しても気がついたら自我としてここにいました、という状態を、ただそのまま受け入れている。
そのような物語を語る自我は、『奇跡講座』の自我のように、
「私が、御父から分離して、ここにいます。私の責任です」
とは言わない。
「気がついたらここにいました、なんででしょう」
と言う。
こうなると『奇跡講座』を学ぶ上で、困ったことが起きる。
一つには、自我が無自覚すぎて、赦しの主体になれない。
そしてもう一つ、自分で分離をしたという自覚がないので、『奇跡講座』の罪悪感がわからない。
◆ 2.分離した覚えはありません
「気がついたらここにいました」
と言う私は、自我としての存在が無自覚すぎて、赦しの主体になれない。
そして、『奇跡講座』の罪悪感がよくわからない。
まずは罪悪感の方から片付けよう。
とはいえ、罪悪感が全くわからないというわけではない。
人は誰でも、生きることに罪深さを感じている(一部そうは感じない人がいて、その人をサイコパスと言うらしい)。私も感じる。それは愛や生きるための糧やその他諸々を、自分以外の何かから奪わなければ生きられないという、私の存在のしかたに起因する。また、自分の心の中に、その罪を犯してでも、なんとしても生きたいという凶暴な衝動も、生々しく感じる。
<語感の問題>
罪悪感のわからなさの理由の一つには、罪悪感という言葉に対する違和感がある。
罪悪感というのは、犯してしまった罪に対する感覚のことだ。
そして母的神の子である私としては、神に対して禁を犯すことはあっても、罪を犯すことはできない感じがする。
父的神と神の子の間には、人間らしい(?)関係性がある。対等ではなくても言語でコミュニケーションが取れる。例えて言えば父と小学生、くらいのイメージだ。逆に言えば、だからこそ父の言いつけに背くとか、父に対して反抗する、というようなことも考えうる。
しかし母的神と子は、イメージ的には母と保育園児くらいだろうか、コミュニケーションが取れない。大人の世界と保育園児の世界はルールが違う。母に対して逆らっても、
「あら、今日はご機嫌が悪いのね」
と、逆に心配されるのがオチだし、お砂場でお友だちのシャベルを奪い取っても、「やってはいけないこと」をやってしまったので、叱られるだろうが、それは罪ではない。
<ついでに『愛している』の問題>
語感ついでに、こちらも取り上げておこう。
罪悪感と同じ感覚で、どうしても慣れないのが、
「神はあなたを愛している」
という、キリスト教の根幹についての語感だ。
初めは
「愛」
という単語が、宗教的な文脈で使われることに対する抵抗感かと思った。
それを一通り受け入れてもなお、まだどうしても、
「ああ、ありがたい」
という気持ちになれない。
「そうですか、それはどうも」
という感じになる。
おそらく母的神は、
「私はあなたを愛している」
とは言わない。
父親が子と、将来的に対等の関係性を目指すのとは違って、母親は子を、自分の所有物として、永遠に庇護下にいるものだと思っている。子に対して、対等な関係性を持とうなどとは、思いもよらない。
同様に母的神と子にも対等な関係性はない。母的神と子は同じレベルの行為者にはならないし、大人の世界と子どもの世界は、言語ではつながらない。
そしてもし言うとしても、
「私はあなたたちを愛している」
と言うだろう。
母的神と子の関係は、一対一ではない。
あまねく偏在する母の愛は、私一人に向けられるものではなく、子どもたち全員に太陽のように注がれる。だからこそ母的神の子が母の愛を一身に受けるためには、その子どもたちすべてと仲良くする(同一化する)ことが必要なのだ。
だから、
「神はあなたを愛している」
という言い方は、私の感覚では”神っぽくない”。
そして、あなたと名指されることで、手放したい自我を、あらためて握らされているような感覚になる。
<身に覚えのない原罪>
話を戻して、母的神の子である私にとっては、神に対する「罪悪感」という言葉に違和感があるということについて。
『奇跡講座』で罪悪感という言葉が選ばれるのは、キリスト教では罪悪感の元になる原罪、つまり「神に対する罪」が語られるからだ。
父的神とその子の物語は、唯一絶対神が愛をもって天地と人間を作り、その人間が神を裏切った、という、愛と裏切りの物語である。つまりキリスト教は、自分の生物としての罪深さの理由として、神を裏切ったという物語、つまり原罪を要請する。そして人間は、原罪ゆえに罰せられるという恐怖を神に投影し、愛であった神は、愛と恐怖の偶像の神にすりかわっていく。
『奇跡講座』はこのすり替わったキリスト教を、非二元論的に解体するための物語だ。
しかし母的神の子である私の存在の物語は、人間は万物の母から生まれた、という自然発生的な物語だ。そしてそこに私の意志はない。受動的なのである。
そういう物語の中に生まれた私には、母を裏切ったという意識はない。
空や海や大地があって、鳥がいて虫がいるのと同じように、自分がいる。
なぜだか知らないけれど、他の諸々の存在と同じように罪深い生き物として、自分はここにいる。その理由を知っているのは母だけだ。
だから母的神の子は、生き物としての罪深さの理由として、父的神の子のような物語を要請しない。
なので、御父を母に置き換えても、私には原罪の感覚がわからない。
なので原罪を犯したという罪悪感もわからない。
<業>
では「自然発生的に生まれてしまった」という物語を、自分の存在の物語にしている私にとって、罪悪感に相当する感覚、つまり「生きることの罪深さが自分のあり方に起因するだろうと感じる感覚」は、なんなのか。
母的神の子でありながら、なんちゃって仏教徒である私にとっては、仏教の「業(カルマ)」がしっくりくる(とはいえ、業の定義が大変難しいので、私の「しっくり」が正しいかどうかよくわからない)。
業は本来、行為という意味らしい。
善因善果、悪因悪果、良い行いをすれば良い結果に、悪い行いをすれば悪い結果になる。悪因悪果が重なると、業が深い、という。
そしてこの業は、今の私の行いだけでなく、輪廻転生を重ねたこの身に染み付いているものなので、もう何が原因で何が結果なんだかもさっぱりわからない。とにかくこの世にいる人は大抵、業が深いのだ。いや、業が深いからこの世にいるのだ。
業は、死を恐れる哀れな生き物の、生きることへの抗い難い欲だ。
この業の深さが、我々を真理から、つまりは神から遠ざけていく。
『奇跡講座』的に言えば、この抗い難さは、神を裏切った罪悪感ゆえに、神に罰せられることを恐れているからだ、ということになるが、神を裏切っていない自我にとっては、この抗い難さがなんなのかと考える以前に、そもそもなんでこんな事態になっているのか、さっぱりわからない。
私が神を遠ざけるのではない、私の業が深いから、神が遠ざかってしまうのだ。
では、なんで業が深いのか。そんなこと私にわかるわけもない。
だから母的神の子は、贖罪を求めるのではなく、救済を求める。
「なんとかしてー!」
これでは赦しの主体になりようがない。
<被害者の論理>
手を滑らせて割ったコップに対して、人は二つの言い方をすることができる。
一つは、
「私が、コップを割った」
で、もう一つは、
「コップが割れた」
だ。
前者は、コップが割れたという状態に対して、誰がどのようにその状態を作ったかを言明する。
後者は、ただ目の前の状態を述べただけだ。
前者は、出来事に対して責任を負う態度で、後者は、出来事を受け入れる態度だ。
そして前者はキリスト教徒的であり、後者は多神教徒的なんじゃないかと思う。
キリスト教徒にとって世界は、自己の行動と結果でできている。
だから今いる世界に対しても、御父から自分が分離したことによって自分が作った、という責任を引き受ける態度を取ることができる。
多神教徒にとっては世界は、母的神からたちが作ったものであり、神そのものでもあり、自分もその一部だという認識を持っている。世界に対して受動的な認識に、そしてもし、その自分が生きる苦しみを感じているなら、被害者的な認識になるだろう。
世界に対して行為者としての責任を語るキリスト教的自我は、その物語を解体して神との分離を訂正し、神と一つの状態に戻ろうとする時にも、その自我が責任を引き受けることができる。世界を作ったということが幻想であると認め、父的神のように見えている本当の神に、贖罪を求める。
「私の勘違いでした。訂正してください」
そして父と自分は分離していないということを認め、一つなることで幻想を止める。
『奇跡講座』はこの方法を使っている。
しかし世界に対して受動的な、下手をすると被害者的な認識を持っている多神教的自我には、神々の世界の生成の物語を解体することはできない。世界はそうなっているものであって、それは受け入れるしかない。
そしてそこから抜け出したければ、神に救済を求めるしかない。
「なんだかわからないけど、なんとかしてー!」
この被害者的な自我にも、この世界から脱出するルートはある。
瞑想や修行によって体感的に「空」を知り、自我を崩し、母的神との一体化の感覚を知る方法だ。自分は母から生まれた子ではなく、母の一部であり、また母そのものである、ということを知る。
どうせどちらも自我の物語だから、理論的にはどちらのルートでもいいのだが、問題はその自我が、その物語に、
「ああ、確かに私はそういう物語を生きていた」
という実感が伴うかどうかだ。
<ハイブリッド自我>
私は、地域的には、
「なんだかわからないけど、なんとかしてー!」
と叫ぶ多神教的自我に属する。
しかし多神教徒として無自覚すぎたし、仏教徒としてもあまりにいい加減だった。
そして子どもの頃からの学習の方向性は、キリスト教的だ。
日本的なものはだめで、欧米的なものがいいんだ、という社会的風潮の中で大人になり、おばさんになった。感覚よりも理性を重んじ、物事を論理的に考えるのがいいと思ってきた。また私の持って生まれた性格自体も、必要以上に理屈っぽかったし、感覚的には鈍かった。
ところが、この論理性も中途半端なのだ。
そもそも日本人の思考は、そしてそれを支える日本語は、合意と調和を求めるためにあり、根本的に論理には向いていない。その上、その論理の根本にある神への信仰が欠落しているので、日本人の論理には力がない。
つまり私は、キリスト教的自我と多神教的自我のハイブリッドで、両方に中途半端に接しているのでどちらにも共感できないが、あえて言えば、多神教徒的自我の方には多少の感覚的馴染みがあり、思考的にはキリスト教的自我に馴染みがある。
◆ 3. 非二元論ってなんなの
さて、ここまで、
御父がわからない。
そして御父を裏切った記憶がない。
だから罪悪感がわからない。
という愚痴をこぼした。
で、ちょっと話が飛ぶのだが……。
<純粋な非二元論>
『奇跡講座』の特徴は、「純粋な非二元論」であることだと、言われることがある。私もそう思っていた。
純粋な非二元論とは、東洋的な非二元論、特に仏教の「空」あるいは「無」にとどまらず、その向こうに、愛がある、愛しかない、ということを指し示したものだと、私は解釈している。
なので、純粋な非二元論である『奇跡講座』は、非二元論では行けない境地まで行くことのできる、究極の教えなのだ、と思っていた。
しかし「純粋な非二元論」という表現は、ほかではほとんど聞いたことがないし、『奇跡講座』自体は、非二元論、あるいは一元論、と説明されていることも多い。
純粋な非二元論と、非二元論と、あるいは、不二一元論と、一元論は、同じなのか、違うのか。
一応調べてはみたけれど、なんか、わかったようなわからないような……。
<削り出す>
純粋な非二元論と、非二元論と、あと不二一元論と、一元論。
これらは同じようなことを言っているような気もするが、なんかそれぞれ言いたいことが微妙に違うような気もする。
少なくとも、りんごとみかんは同じか違うか、というような話にはならないらしい。
なので、純粋な非二元論と、非二元論についてだけ、私の疑問についてのみ、まとめてみようと思う。また私にとっての非二元論は仏教なので、ヒンズーの沼には立ち入らない。
仏教は、基本的に超越的なもの、神とか、天国とか、輪廻とかについては、「ある」と言わない。非二元論的には、そういう存在を「ある」と言うのは禁じ手だ。
しかし『奇跡講座』は、「ある」を使った。
愛だけがある。
そして御父がいる、天国はある。
だがこれは、『奇跡講座』に限らず、大乗仏教も使った手だ。
大乗仏教には、天国に相当する浄土や、御父に相当する如来という概念がある。
しかし、釈迦の教えには、浄土も如来もない。
そう考えると大乗仏教も「純粋な非二元論」と言えるかもしれない。
しかし、私が誤解していた重大なポイントは、浄土や如来を語らないタイプの仏教が、愛があるということを否定している、あるいは無視していると思っていたことだ。
ここで気をつけなければいけないのは、仏教が、愛があるとは言っていないが、愛がないとも言っていない、というところだ。
仏教の原型は、愛があるとは言わない。
超越的な存在も想定しない。
その代わりに、「世界はない」「あなたはいない」「変わらないものはない」と否定を積み重ねていく。それはたぶん、真理や愛や、超越的な存在といったこの世界に属さないものについて、「〇〇がある」と言葉で言った時に、〇〇も、そして「ある」という状態も、正しくそれを指し示さないからだ。
しかしそれは暗黙裡に想定されており、否定の積み重ねは、間違いだらけの認識の中から、それらを削り出すことを目指している。
なぜならそれを語る人たちは、それがあることを「知っている」からだ。
そう考えるとこの切り口からは、純粋な非二元論と非二元論は、表現の仕方は違えど、私たちを連れて行こうとする場所は同じだと言っていいだろう。
<何かが違う?>
『奇跡講座』は、仏教と同じ非二元論だ。
それはそれでいい。私は保守的な自我なので、自分が学ぶ体系が思想史的に伝統的な論理体系であるとわかったほうが、むしろ安心する。
しかし、何かが違う……ような気がする。
『奇跡講座』の「愛がある」あるいは「真理がある」「神はいる」と、仏教が言外に示すものやその状態は、なんか違う……ような気がする。
そしてその違いがすごーく気になって、『奇跡講座』が非二元論だという確信が持てない。
どう違うかはちょっと置いて、違うと感じる理由として、まず単純に思いつくのが、『奇跡講座』がキリスト教ありきで、それに対する間違った投影を解体するための物語だからだということだ。キリスト教にはもともと愛という実感のともなった概念があるから、愛についての誤解を解けば「正しい」愛が出現する、という言い方になるのは必然だろう。御父についての誤解を解けば、「正しい」御父が、天国についての誤解を解けば、「正しい」天国が出現する。
しかし私には、その「ありき」のキリスト教的背景がない。それを実在のものとして信じてきた歴史がない。なので私には、誤解を解いた後に出現する予定の、「正しい」愛や、天国や、御父は、もともとなかったものが、新たに出現するように思える。
突然現れたそれらを、さあ信じろ、と言われても、なんだかとても怪しげに感じる(もちろんそんなふうに感じない人もたくさんいるのは承知している)。
「あなたが白くまだと思っていたものは、実はパンダなんですよ。よく見ると耳と目の周りが黒いんです、かわいいでしょう」
と言われた場合に、白クマがイメージできており、白くまの実在を信じていれば、パンダのかわいさもイメージしやすいが、白くまがわからないとパンダのかわいさもいまいちわからないし、可愛さの実感も湧かないと、そういうことを言いたいのだが、伝わるかなあ……。
<あるとか、ないとか>
そしてもう一つ、『奇跡講座』の非二元が、仏教とはどこかが違うと感じてしまう理由として、『奇跡講座』の土壌である西洋的な思考体系と、東洋的な思考体系が違うということが挙げられると思う。
西洋的なロゴスの思考体系では「ある」の反対は「ない」だ。真理も愛も、御父も聖霊も天国も、「ない」でなければ、自動的に「ある」になる。
しかしインド系の思考体系にはレンマなるものがあるそうで、これでは「ある」の反対は「ない」にはならない。その中間、というのがあるらしい。ここは難しすぎて深く突っ込めないのだが、物理的にそこに存在するもの以外については、おそらく「ある」も「ない」も、
「あるんだかないんだか、はっきりしろ!」
ということではなく、
「あるとも言えるしないとも言えるし、それは『ある』をどう捉えるか、『ない』をどう捉えるかによる」
みたいに物事を論じるらしい。
仏教が、「ある」と言わずに「ない」だけで論じられても、虚無にはならない理由は、この辺りにあるんじゃなかろうか。
<ふんわりしててほしい>
『奇跡講座』には『奇跡講座』の、仏教には仏教の背景があって、同じ非二元論でもそれぞれの表現に違いが生じる。
そしてそれとはまた別に、これはもう全く学問的問題ではなく、私の個人的な思い込みなのだが、仏教的非二元論に対しては、
「なんか、はっきりしないけど、そういうものなのだろう」
と、特に疑問も感じず、ふんわりと受け止めてきたという経緯がある。
宗教としての仏教には、文学を通してそこそこ触れてきたし、お寺めぐりも好きだし、葬式だ法事だと、お坊さんに会う機会もあった。しかし哲学としての仏教を学ぶ機会は全く作ってこなかったし、そもそも見えない世界の話なのだから、論理性とか整合性とか考える必要もないと思っていた。
おそらくそういうふんわりとした仏教との関わり方のせいで、私は、非二元論はふんわりしてると思っている(間違いです)。
そのせいで『奇跡講座』で、
「〇〇がある」
とか、
「私という自我が存在する理由は、御父を裏切ったからだ」
とか、物事を断言されると、
「なんか非二元論ぽくない」
と思う(間違いです)。
<too much>
いろいろな事情が積み重なり、私は、神秘的なものを断定的に「ある」と表現することに違和感を感じる。
なので私は、『奇跡講座』の表現を過剰だと感じてしまう。
愛や真理や御父や聖霊や天国を、そういう名で呼ぶことが正確ではないと感じ、それらがある、あるいは、いる、と断言されることに懐疑的になり、全体に『奇跡講座』は言い過ぎである、あるいは(不確かなものを「ある」と断言することによって)論理が飛躍していると感じる。
しかしそれは『奇跡講座』が、キリスト教という確固とした概念をベースに、ある、ない、という論理で語られる以上、そういう表現になるのは当然のことだ。
しかも、そもそも神的存在に対して、ずっとふんわりとした理解でお茶を濁してたくせに、ある時点で人生に行き詰まり、自我的判断ではにっちもさっちも行かなくなって、
「神さまって何よ、いるんだかいないんだかはっきりしてよ!」
と絡んだのは、私だったではないか。
だからそんな私にわかるように、『奇跡講座』が、「いる」「いない」で答えてくれたのだ。
神はいる。
あなたはいない。
<結局は、信仰心>
さらにもう一つ、私が純粋な非二元とはなんだとか、『奇跡講座』の非二元論を不自然だとか、ぐだぐだと言う理由は、多分これが一番根本的で、ここまでの愚痴の全ての答えなのだが、私の信仰というものに対する姿勢が、世界で一番くらいにぐだぐだだからだ。
信仰がないわけではない。
曖昧にはある。ありすぎるほどある。
神社に行った後にお寺に行って、なんなら教会も行く。
でもそれは、自分の生き方の全てを明け渡し、人生の規範にする、というような全的な信仰ではない。日本人の習性みたいなものだし、
「もしかしたらなんかいいことあるかも、祈っとけ」
くらいの感覚だ。
なにしろ母的神は、母親のごとく気まぐれで、理不尽で、何を考えているのかさっぱりわからないので、普段からなるべく悪いことをしないようにして、神社とかお寺とか、霊験がありそうな木だとか、そういうものを拝んでおこう、そうすれば、何かいいことが転がってくるかもしれない、そういう考えが染み付いている。
私にとっての信仰はその程度だ。
その状態で、全的な信仰について理解しようとするからわからなくなる。
<日本人のくせに>
しかもさらに残念なことがある。
本当は日本人の信仰は、私のように適当ではない。
私がそれを取り落としているだけだ。
なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる
これは日本人の宗教観を表す歌として知られる、西行法師の歌だ。ご本人は別にそんなことを歌ったつもりはなかったと思う。
真言宗の僧侶だった西行が、伊勢神宮で、なんだか知らないけど泣けてくるほどありがたい、と歌うほど、日本人は超越的な存在とのつながりが深い。
この感覚が核にあるから、超越的な存在が、神と呼ばれようとも仏と呼ばれようとも、それが「ある」「いる」ということは疑わない。ものすごく信心深い。
もちろんそれは自分の中にあるということも確信している。
かつての日本人は、自分は自然と一体であり、自我としての個ではないということを体感的に知っていた。
ところが自我的にハイブリッドな私には、その先祖伝来の信心深さが伝わっていなかった。
この歌を非科学的だと感じ、この歌に接したときに、あろうことか、
「なんか適当だなあ」
と思ったのだ。
「愛だけがある」「神がいる」「天国はある」「聖霊はいる」と言われると言い過ぎだといい、「涙こぼるる」と言われると、非科学的だ、適当だ、と私は言う。
「愛がある」というのは、「かたじけなさに涙こぼるる」ということと同じだ。
日本人ならそれがわかるはずなのに、私はなまじ合理的・科学的に考えるのが良いと思っていたので、結果的に両方がわからなくなってしまった。
<ここが始まり>
日本人のくせに自然と一体化して溶けていく感性を失い、かといってキリスト教をはじめとする一神教には関心がない。
神との絆は完全に断たれている。
そもそも私の人生が、『奇跡講座』を学ばねばならないところまで追い詰められたのは、ここが始まりだったのではないかと思う。
和魂洋才の「魂」がすっぽりと抜け落ち、中途半端な洋才でできている私(和魂は金にならないが洋才は金になるからだ)に、中途半端ではあっても、せめて残っている洋才。
これだけが私の最後のツールであり、そこに『奇跡講座』が現れた。
『奇跡講座』を学ぶうちに、神なしで生きられると思うことがどれほど傲慢なことか、そして聖霊の助けで御父の愛に支えられることがどれほど有難いことか、嫌というほど思い知らされたので、私は、神について、わからないといい、いるとかいないとか(いるとはどういう意味かにおいて)考えたりはしても、いないとは思っていない。
ようやく、「かたじけなさに涙こぼるる」という気持ちに、素直に共感できる気がする。
しかし最後に、もう一つ、いるんだかいないんだかきっちりしておきたい存在がある。
聖霊だ。
◆ 4.聖霊ってなんなの?
さて、ここまでくると、『奇跡講座』が与えられたことについて、感謝こそすれ、文句を言おうという気持ちにはならなくなった。
ところが、最後の難関が残っている。
聖霊である。
御父もわからないが、聖霊のわからなさも大概だ。
聖霊とはどちらさまなのだろう、いや、なんなのだろう、が正解か?
人なの?鳩なの?蝶なの?(もちろんどれでもない)
<聖霊の機能>
聖霊とは何か、という定義は、キリスト教でも大変に難しいらしいが、その機能は、神と子を取り持つことである。
その役割から考えれば、仏教でいうと、衆生の救済を誓ったという如来とか観音とかに当たるのかなと思う。
母的神の子の、
「なんとかしてー!」
という叫びに対する一つの答えとして仏教があり、母と子を取り持つ機能として、阿弥陀さまや観音さまがあるのだろう。
じゃあ、仏教に親和性のある私としては、聖霊と呼ばずに阿弥陀様とか観音様と呼べば気がすむのかというと、残念ながらこちらもよくわかっていない(でも、拝む)。
ただ、如来・観音グループは、日本では、
「神さま、仏さま」
と言われるように、神様と同格になっている。インドでもヒンズー教の神々と混ざっているし、そう考えると、こちらは御父と聖霊を合わせたような存在になっているのだろう。そういう意味でも、やはり神とは機能的に区別されている聖霊は、母的神の子にとっては馴染みのない存在だと思う。
<聖霊も私も概念>
聖霊がわからない直接的な理由は、母的神の子にとって、その代替になるような概念が存在しないからだと思う。聖霊を精霊と表記する人がいるが、それくらいに曖昧な存在だ。
勉強会やセッションでも、
「聖霊って何ですか」
と聞かれることは大変に多い。
それなのにその存在が、『奇跡講座』の実践において、ほとんどの役割を占める。『奇跡講座』を実践するなら、何事も聖霊に聞き、聖霊に委ね、聖霊にお願いすることになる。私の出番などほとんどない。
聖霊に頼ることが全てだ。
その聖霊がよくわからないと言いながら、正直、よくもここまで『奇跡講座』を続けてきたものだと思うが、『奇跡講座』に対する疑問が少し解けてきた今、改めて思うところをまとめてみようと思う。
まずは、当たり前のことながら、聖霊とは概念であることを確認しておこう。
父的神も、母的神も、そして御父も、自分を人だと思っている私が投影するから、人型や象徴的な動物のイメージになり、人と同じように動作主として表現される。
しかし、当然ながらそれは比喩であり、私が体として存在しないのと同様、神も聖霊も菩薩も形として存在するわけではない。
便宜上、聖霊は私に語りかけ、私を励まし、私を救ってくれるのだが、これはあくまでも私が体として存在すると信じているから、私がそういう表現を必要としているだけだ。
聖霊という実体は、私が体として存在しないこと同じ意味で、存在しない。
ともに概念である。
<聖霊を選ぶということ>
聖霊も私も、実体ではない。概念である。
そして私とは、「私とは物質であり、体であり、それが世界から切り取られて独自に存在することができると信じる概念」である。また聖霊とは、「私とは世界全体であり、また、世界全体が、私が存在するという概念によって生じる概念である」ことを知る、概念である。
つまり両方とも私なのだ。
聖霊と私は、一つの出来事に対して、二つの別々の自己概念に基づく別々の思考体系に基づき、別々の態度をとる。
私の思考体系、つまり自我の思考体系は、私と世界は分離しているという信念に基づく。だから、自我の思考体系に基づいた態度を取れば、私と世界は分離を強化する。
聖霊の思考体系は、私も世界も概念であり、存在しないという「事実」に基づく。この「事実」は自我的には信じ難いが、実際に物理学の世界で、物質は量子レベルにまで解体され、観察者の介在なしには物質になり得ないということがわかり始めている。聖霊の思考体系に基づいた態度を取れば、私と世界は分離を解消することになる。
仏教的には自我的思考体系は利己的思考体系、あるいは悪因悪果の理であり、聖霊的思考体系は利他的思考体系、あるいは善因善果、ということになるだろう。
『奇跡講座』から少し逸脱するが、自我的思考体系とは、生き物の、その自己同一化した体から上がってくる、この体を保持したい、生きたいという欲求に基づく、攻撃と防衛の反応の体系である。私の心というものがあって、それが自我を保持し、この体で生きたいと願うのではなく、体からの化学的な反応が、私の中に生きたいという願いをうみ、それが心になる。
そして聖霊的思考体系とは、その反応を生み出す体はない、という認識から、自我的思考体系を訂正する体系だ。
そして大事なのは、この二つの体系を思考する概念は、違うレベルに存在するということだ。コインの裏表のように存在するのではなく、別々のコインとして、別々のレベルにある。
つまり、自我的思考体系で思考する私が、『奇跡講座』を学ぶことで、体からの化学反応を振り切って聖霊的思考体系で思考できるようになるわけではない。聖霊を選ぶということは、自分に対する概念を変え、そちらの思考体系に乗り換えるということであり、心を訓練するということは、そこに留まり続けるということだ。
<聖霊と仏心>
聖霊とは自分のことであり、聖霊を選ぶということは、自分に対する概念を変えるということだ。
これを踏まえて、改めて聖霊とは何か。
思い起こされるのが、「仏性」である。
仏性とは、Weblio辞書によると、
人や生き物の内奥に存在すると考えられるほとけ(仏)としての性質。ほとけになり得る(成仏し得る)素質。
だそうだ。
『奇跡講座』的に言えば、わたしたちの心に残された、神の子としての記憶のことだろう。そして仏性とはそれを概念化した言葉であり、聖霊とは、その概念を擬人化したものだと言えるのではないだろうか。
そして私は、それを頼りに、もし私に罪がないのなら(もし私がこの体というものに依拠せずに、生も死もなく、永遠なる愛として存在しうるなら)、どのように振る舞うかを知ることができる。そしてそのように振る舞うことによって、私はそのような存在であることを、次第に思い出していく。
◆ まとめ
そろそろ愚痴のまとめに入ろう。
<立ち位置を決める>
父的神と子の関係は、超越的存在と、それを裏切った私という物語で存在している自我との関係である。
この自我は、父親に対する子のように、一人前の存在として自己を立ちあげている。
だから『奇跡講座』は、一度立ち上がった自己に、
「あなたは神を裏切っていない」
ということ教え、その自己の責任において、神に対する恐怖を訂正させ、本来の、神と一つの神の子に同化させていく。
母的神と子の関係は、超越的存在(自然)と、その一部である私という物語で存在している自我との関係である。
この自我は、母に対する子のように、母との一体感を持っており、母との境界が曖昧だ。しかし、完全に一体であるという認識はない。中途半端な自我である。
父的神を誤創造し、自己を立ち上げた状態から自我が始まる『奇跡講座』の側からいうと、この状態は分離の後の二次的な解離になるが、母的神を誤創造する自我の側から言うと、立ち上げ以前の遊離の感覚だろうか。
このような曖昧な自我が、仏教的な空の思想に出会うと、
「あなたは産まれていない、あなたも、あなたを産んだ母も(つまり自然も)存在していない」
と教えられる。
私はこの両方を中途半端に、しかも(宗教的にも文化的にも)体験ではなく、知識だけで齧ってしまったので、どちらも「根拠がない」と感じた。そして、御父につながるための糸口である、父的神も母的神も見失った。
私の自我は、自分が抱える生きづらさに対して分離の責任を引き受け、赦しを乞うほど成熟していなかったし、ただ泣きじゃくって救いを求めるほど素直でもなかった。
だからと言ってそのままにしておくと、私はただの自我で終わってしまう。
それは困る。
それに懲りたから、こんな面倒なことを学んでいるのだ。
では、どちらの立ち位置を取るかとあえて言われるなら、まずは、母的神と子の関係の側に立つしかない。
神を裏切ったという「冤罪」を無理に信じるくらいなら、まだ、
「私は母的神から生まれたと錯覚している」
ということを受け入れる方が自然に思える。
だとすれば私は、この感覚から『奇跡講座』を、理解し直すしかないだろう。
最初に提示した三項目の『奇跡講座』に対する戸惑いは、互いに関連している。
ざっと見渡したところから、改めて問題点と解決策を見直してみようと思う。
<『奇跡講座』は、「ある、ない」で語る非二元論だ>
まず最初に、3項目目に取り上げた、「『奇跡講座』は非二元論なのか」という問題から。
私は『奇跡講座』が非二元論であることに自信が持てなかったが、その違和感の原因は、「ない」だけで語る仏教と、「ある、ない」で語る『奇跡講座』との論法の違いであるということで、私は納得した。
そして信仰と論理の両輪で理解を進めていくべき問題に対して、論理的な理解だけで押し切ろうとすると、ドツボにハマりやすい、ということにもだいぶ懲りた。
さらに、『奇跡講座』以上に仏教を理解していないことにも気づいた。
仏教は、「ある、ない」よりもさらに緻密な論理構造で語られている。
私が理解している日本の仏教のように、ふんわりと南無阿弥陀仏と、言っていればいいという訳ではない(日本の仏教だってそんなことは言ってないはずなのだが、私には伝わってこなかった)。
仏教を含むインドの論理学は、本来、わからないことを受け入れることで、わかることをアップグレードしていく論理なのだと思うが、その先を追求しない人間は、わからないまま放置されやすい。そして私も、わからないまま放置され、わからないことは、まあ、そうなっているのだろうと、受け入れてしまった。
この、
「(ものごとが)そうなっている」
という感覚、そしてそれをそのまま受け入れてしまう感性は、我ながらとても日本人ぽいと思う。日本語が、その状態を表す述語を中心として言葉で、述語に対する主語(行為者)がいなくても成り立ってしまうのは、日本人の思考傾向の表れだ。
<帰れない>
そして2項目目の「罪悪感がわからない」
私の自我の物語は、分離後から始まっており、それ以上遡ることはしない。
そして日本人ぽく、わからないことはそのまま受け入れる。
なので『奇跡講座』的な分離前の物語を語ることは、たとえそれ自体が一種の神話であり、比喩であっても、私にとっては罪悪感の捏造という感覚になる。だから私は『奇跡講座』的に罪悪感という言葉を使うとき、妙に偽悪的に感じる。
私にとって罪悪感に相当する感覚は、生き物ゆえの、生きたいという欲であり、その欲を満たすために他者から愛や物を奪おうとする(欠乏の感覚を投影する)業である。これは止めたくても止められない。生き物は、そういうふうになっている。
しかしこれは罪ではなく、苦なのだ。
そしてこれほどの苦しみを味わう私は、きっと自分には想像もつかないような罪を犯したのだろうと想像するが、この罪の感覚は、『奇跡講座』でいう罪悪感ではない。罪悪感とは自分が犯した罪に対して感じる気持ちのことだ。私が感じる罪の意識は、
「なんだかわからないけどごめんなさい、申し訳ないです」
という、憐れみを乞う気持ちなのだ。
つまり自分が犯した罪の罪悪感ゆえに、罰せられることを恐れて神の元に帰らないのではなく、自分には理解不可能である深い罪を負っているがゆえに、悪因悪果を重ね、分離を続ける自分を止めることができず、帰ることができないのだ。
私という自我はどこまでも、
「わからないからどうしようもない」
という論理でできている。
おそらく私が言いたかった一番の愚痴は、これなのだと思う。
「帰りたくないんじゃない、帰れないんだ!」
しかし、だからなんだというのだろう。
帰らないも帰れないも、自我の意識の言い分で、自我の意識は『奇跡講座』的にも私的にも、存在しない。存在しないものは、正しくもないし間違ってもいない。
では『奇跡講座』は、神を裏切った私、という物語を語ることで、私に何を言おうとしたのか、ということだけに意識を払えばいい。
つまり、分離は起きていない。
私は無辜である。
ということだ。
<神の子として立ち上がる>
そして1項目目、「御父がわからない」。
私は、超越的な存在に関しては、仏教的な「ない」で語るのに慣れているので、神を実在するかのように語られることに違和感があり、
「なんか嘘くさい」
と感じる。
また私にとっての神とは、母的神であり、私を含む自然そのものの投影である。
自然と私は別個に、つまり対象として存在しないし、自然が私に向かって「愛している」と言ったりしない。
なので、父的神の訂正として描かれる『奇跡講座』の御父に、
「御父は神の子を愛している」
と言われても、なんだかピンとこない。
しかし、西洋的な「ある(いる)」「ない」の論理で神を語るなら、神は「いる」と断言されなければならないし、その神は、神に対して自己を立ち上げた自我に一対一の対等性を投影されている。その訂正として描かれる『奇跡講座』の御父が、神の子と人間的に言語的でコミュニケートし、「愛している」と語りかけることも自然な流れだ。
そして私が、母的神の子としての自我意識を持ちながら、父的神の子の訂正の物語である『奇跡講座』で、神との分離を解消しようとするのなら、私は、母的神と父的神が共に投影による誤創造の神であることを認め、『奇跡講座』の御父を、投影が訂正された本当の神、自分の源の象徴として受け入れる努力をしなければならない。
そのためには母的神の子の特徴である受動的・被害者的態度を改め、この世界が自分の責任において成り立っていることを引き受けなければならない。
世界はない、自然もない、私しかいない、ということを受け入れ、帰れない、わからないとどこかの何かに責任転嫁をする姿勢を改め、父的神の子のように、自己に対する責任を持って御父の前に立たなければならない。
それは具体的には、自分にはすべての場面で愛か恐怖かを選ぶことができる力がある(逆にそれしかない)、ということを受け入れることだ。
恐怖を選ばず、愛を選ぶと決断すれば、聖霊がその決断を全面的に支持してくれる。
このシステムを受け入れれば、私はもう無力な被害者ではない。
御父とは感覚的にはほぼ初対面だが、御父はとにかく全力で、
「愛してるよ!」
と繰り返し語ってくれる。
最初は、
「知らないおじさんに、愛してると言われても困る」
というひねくれた感覚しかなかったが、決断の場面に直面し、世界が、自分の人生が、この決断にかかっているという重みに、
「うううう」
とと唸ったり、
「この決断は、恐怖を選んでいないだろうか」
と不安になったりするたびに、次第に御父のその言が、選択する私を信頼し、存在を肯定し、支えているという意味なのだということがわかるようになった。
「愛してるって、そういうことなのか」
と、ようやくこの言葉の意味が、分かりかけてきた気がしている。
<本心>
さて、そういう状況が整った時に、ようやく、自分の本心に気づくことになる。
恐怖を選ばないという、ただそれだけのことができない。
ほんっとうにできない。
訓練されていない心は、脊髄反射で恐怖を選ぶ。選び続ける。
遥か太古の遥か彼方での分離の責任は知らないが、今、この瞬間、私は分離を選んでいる。この世界を作っている。
そして、今、ここしかないという事実を思い出し、痛感する。
ああ、私は、帰れないんじゃない、帰りたくないんだ。
それでも私としては、帰りたくない理由も、『奇跡講座』が父的神を誤創造した自我に対して説明するように、
「神の罰が怖くて帰りたくない」
のではない、と思う。
私の自我としてのプログラムが、
「帰りたくないようになっている」
と言いたい。生き物は利己的に遺伝子を残そうとする。そのように私の体は、プログラミングされており、私の心はそのプログラミングに従って意志決定をする。
プログラミングされている? 誰に?
「えー、わからない」
と言いたいが、世界には私しかいない。
しかし、それならそれでなおのこと、もう自我である自分ではどうにもならないことが身に沁みる。もう理由なんてどうでもいい。
「聖霊……これ以上文句は言いません。助けて!」
<聖霊とは私である>
そして聖霊とは、
「分離は起きていない、私は無辜である」
という正しい自己認識の、私である。
分離を信じ、自分と体を同一化させた私は、この体を存続させるために、罪を冒し続けなければならない。これを何とかするには、自分は体ではない、という、新しい自己概念が必要になる。
聖霊は、その自己概念である。
私の中には、そして誰の中にも、その自己概念の記憶が存在している。
それは世界を見て美しいと思い、兄弟を愛おしいと思う私だ。
そして私は、聖霊的自己概念を選ぶことによって、体ではない自分として振る舞うことができる。この一瞬に分離を選択せずに、愛を選択することができる。そしてその選択の積み重ねが、私の自己概念を少しずつ聖霊的自己概念に寄り添わせていく。
◆ 最後に
私の長い愚痴にお付き合いいただき、ありがとうございました。
恥ずかしながら、ろくな学びをせずにいい歳になり、歴史も文学も、そして哲学にも宗教にもほとんど興味がないまま、『奇跡講座』という分厚い本に導かれることになり、七転八倒した十数年でありました。
付け焼き刃の学びを付け焼き刃にまとめた自覚はありますが、自分としては、『奇跡講座』に対する(かなり強烈な)違和感について、学びの誤解なのか、文化的土台の違いなのかを整理することができ、少しすっきりした気持ちです。
人目に晒すこともないだろうという気もしたのですが、最初にも書いたように、何人かの友人に中途半端にしゃべり散らしてしまったこと、また、もしかしたら、どなたか同じような違和感を感じていらっしゃる方がいれば、一緒に学びを深めていくきっかけにもなるかと思い、思い切ってアップしてみることにしました。
何かお気づきの点があれば、ご指摘いただければ幸いです。
どの教えも同じですが、『奇跡講座』も、その教義の解釈は、実践を伴わなければ全くの無意味です。これからも聖霊を選ぶための訓練を続けて行こうと思います。
◆ おまけ ショート・ショート
<ショート・ショート>
<割れたコップ>
割れたコップを目の前に、『奇跡講座』的自我は、
「これを割ったのは自分だ」
と言った。
なぜなら『奇跡講座』的自我にとっては、行為者がいなければ結果がないからだ。
「私が、コップを、割った」
そして、割ってしまった罪悪感を抱えて逃げ回る。
しかし、私の自我は、
「なんで割れたかわからない」
と言って泣きじゃくる。
だって本当にわからないのだ。
気がついたらコップは割れていた。
私の自我にとっては、目の前に現れる状態とは、そのように「なる」ものであって、「する」ものではない。
割れていたものは、割れていた。
なぜかなんて、考えたってわかるもんか。
そして、どちらも、
「割れてないよ!」
という、神と自分をつなぐ聖なる声が耳に入らない。
いや、入れようとしない。
なぜなら、どちらも、罪だ、苦だと言いながらも、その実、
「そのコップ、割れたままにしておきたい(神から分離して自分が神でいたい)」
と思っているからだ。
そしてそう思う理由について、『奇跡講座』的自我は、
「罰を受けるのが怖いからだ」
という。
私の自我は、これに対しても、
「なんでかな」
という。
なんでか知らないけど、片付けたくない。このまま割っておきたい。
ときどきキラキラ光って、ちょっと綺麗だからかもしれない。
<わからない>
ときどきキラキラ光って綺麗だからと、うかうか破片を眺めていたら、私は本当に追い詰められてしまった。破片もまったく光らなくなった。ただの危険ゴミだ。
なんで割れたか、なんで片付けたくないのかわかないと、ぐるぐるしているうちに、ついに、
「生きている意味がわからない」
と言い始めた。
もう、何もかもがわからない。
こうなったら、
聖なる声の、
「割れてないよ!」
という言葉を聞くしかないのだが、
「そういう目に見えないものは、わからない」
と言い続けてきた私には、その声も聞こえなかった。
しかしさすがの私も、心のどこかで、
「これはまずい」
と思ったのだろう。たぶん。
そしてようやく私に聞こえた声は、かつての宣教師のように、外国語訛りの声だった。
「アナタハ神ヲ信ジマスカ?」
「ど、どちらさま?」
「聖霊デス」
<聖霊 その1.>
「神はいる」
「愛はある」
と、はっきりと言い切るこの押しの強い声にも、私は、
「神とか愛とか、わからない」
と対抗してみたが、その声は、引かなかった。
「このテキストを読んで、赦しを実践すればわかります。ここにわかるように書いてあります。読んで、赦す、これを繰り返せばわかります」
「いえこの本、論理的に見えるけど、前提(神はいる)の正しさが証明できてないですよね」
「では、いないと証明できますか?」
「え?」
「神はいないと、証明できますか?」
「……」
「どちらも証明はできないのです。する必要もないのです」
「でも、神はいる、と、つまり、りんごがある、みたいに言うのも、なんか違う気がしませんか?」
「もちろん違います。でも、いるか、いないか、というなら、いるのです」
「えー、なんかよくわからない」
「あなたはいるんですか?」
「え、いますよ?……あ、いません、いないんだったわ」
「そういうことです。いないけどいるんです。あなたがいるのなら、神はいません。あなたがいないのなら、神はあなたと一緒にいます」
「うーん」
「そもそも言語で表現できないことを、言語で解析しても意味はないんです。それより神はいないと言い張ってここまでやってきて、今、そんなに辛いのなら、いるという方に賭けてみても良いのではないですか」
「でも、いないものをいると信じて、人生を賭けて、変な方向に行ったら」
「あなたそれ以上、変な方向に行けるんですか?」
「……(けっこう、一杯一杯)」
「信じてごらんなさい。あなたにはわからないことをわからないと認めて、わかりたいと願う、それを信仰っていうんです」
宣教師みたいな聖霊は、根気強く私を説得した。
<聖霊 その2.>
彼はキリスト教の言葉を使うし、耳慣れないくらいに論理的なので、日本人である私には合わないと思うことも多かった。
「御父はあなたを愛しています」
「いや、なんかその、愛していますっていうのがこう、肌に合わないっていうか」
「『月が綺麗だね』とでも言えば肌に合うんですか」
「いや、それはちょっと意味が違います。でもまあ、それもそうなんです、愛っていう言葉が、ちょっとフワッとしてるんですよね、文学的というか、エンタメ的というか。現実の生活のレベルで使わないんで」
「あなたが昭和生まれだからじゃないですか」
「でも、それよりは御父って人じゃないのに、人じゃないものに愛されるって、ありえないっていうか」
「じゃ、あなたは人なんですか」
「いえ、違います、神の子です」
「じゃあ、いいじゃないですか。神は神の子を愛してるんです。何がいけないんですか」
「神が主語に立つのが嫌なんです。神は、人間みたいなことをしないっていうか」
「もちろんしません」
「でしょ?神はレベルが違うので、愛するとか愛されるとかっていう親交は起こり得ないというか」
「神と神の子はレベルが違うのですか」
「違いません」
「あなたは……」
「神の子ですね」
「じゃあ、いいじゃないですか。御父と存分に親交を深めてください」
「(……なんかケムに巻かれてないか?)」
<コップは割れてない その1.>
それでも彼の説明は、神がいる、というところだけ、エイッと飲み込んでしまえばわかりやすかったし、出家しろとか何時間も座禅しろとか菜食しろとかお酒はダメとか言われなかったので、
「これならなんとかついていけるかも」
と思った。
それでもやはり現実に行き詰まり、恐怖を選択し続けてしまうと、聖霊の声に対してこう言いたくなる。
「私は御父を裏切ってない。私の罪悪感は聖霊の言う罪悪感とは違う。私は罪悪感があって怖いから帰らないんじゃないんです、なんで自我になってるのかわからないから、帰れないんです!自我になった原因が違うんですよ。私の『奇跡講座』の学びが進まず、赦しが進まないのは、そこんとこが違うからなんじゃないかと思うんですよ」
「だからそれは物語だって言ってるでしょう。あなたはわからなくて良いことを、わからないって言ってるんです。私が言ってるのは、自我であるあなたはいない、ということです。自我になってなんかないんだから、どうやって自我になったかは、どうでもよろしい」
「えー」
「いいですか、コップは割れてないんです。誰かが割ったか、自然に割れたかはどうでもよろしい。割れてないんです。なんであなたは大事なところはわからないと言って曖昧にするくせに、そういうどうでもいところだけ、論理的になろうとするんですか」
「……」
「コップは割れてない。それなのに『コップが割れている、なんでだろう』って座り込んで泣いてるのは誰ですか」
「私です」
「そうです、大体、あなた以外に誰もいないんですから」
「それもそうですね」
「もしあなたが、今の分離の状態から抜け出したいなら……私の言葉で言えば、天国に帰りたいなら、あなたがすることは、コップが割れた原因について考えることや、なんでコップを割れたままにしておきたいんだろうと考えることじゃありません。
コップは割れていないという私の声を聞くこと、コップは割れていないというところから物事を見直すことです」
「えー、わかんな……」
「そのままでいいんですか」
「……」
「そのまま自我として、この世界を回し続けていく気力があるんですね」
「ないです、ごめんなさい」
<コップは割れてない その2.>
「あなたにはいくつかの選択肢もありました。
もしあなたが、自然崇拝の多神教徒的な日本人としてのアイデンティティを全うするなら、自然の美しさの中に神の愛を見て、そのまま溶けていけたでしょう。
インド哲学の複雑さに怯まず、かつ瞑想と修行に励めば、『ない』の向こう側の真理に触れることができたでしょう。
でもあなたが、両方ともわからないっていうから、中途半端に西洋的物質主義を信じてきて、目に見えるものしか信じないと言い張ったあなたに、私がこうやって、西洋的学問である心理学を駆使しつつ、あなたが受けた、本来の国語的ではない国語教育の基盤である西洋的『ある』『ない』の論理を使って、説明してるんです。あなたにはこれしか武器がないんですよ。
あなたが疑問に思っていること、つまりコップはなぜ割れたのか、なぜ割れたままにしておきたいのか、これはあなたが神の愛になればわかることです。
もっとも、わかるというのは、あなたが思っているわかるではありませんけどね」
「それは、どういう……」
「だからそれは、必要ないって言ってんでしょうが!」
「はあ、でもせめて、なんで『自我になっているかわからない』と思うのか、その理由だけでも納得したいなと……」
「それがわかったら、赦すんですね」
「前向きに善処します」
「それ、自然の摂理に対する敬意をすっかり失った近代日本人の、ただ無責任なだけの性質をよく表した返答ですよね。
しょうがないなあ、じゃ、ちょっと回り道になっちゃうけど、少し自分の国の信仰の体系がどうなってるか勉強なさい。自分の足元がきちんとしていれば、それが物差しになって、相手と何がどう違うのかわかるでしょう。そもそもあなたはぼんやりと日本人やってるから、そっちも曖昧なんですよ。
この本とこの本を読みなさい。あと、テレビはこれとこれを見て。あ、この人と話しなさい、あとこのブログ……」
「多い……こんな難しいのわかんない……」
「そのままでいいんですね。そのまま自我として、この世界を回していく気力があるんですね」
「……やります、教えてください」
今、こんな感じです。
おまけ ショート・ショート
<割れたコップ>
割れたコップを目の前に、『奇跡講座』的自我は、
「これを割ったのは自分だ」
と言った。
なぜなら『奇跡講座』的自我にとっては、行為者がいなければ結果がないからだ。
「私が、コップを、割った」
そして、割ってしまった罪悪感を抱えて逃げ回る。
しかし、私の自我は、
「なんで割れたかわからない」
と言って泣きじゃくる。
だって本当にわからないのだ。
気がついたらコップは割れていた。
私の自我にとっては、目の前に現れる状態とは、そのように「なる」ものであって、「する」ものではない。
割れていたものは、割れていた。
なぜかなんて、考えたってわかるもんか。
そして、どちらも、
「割れてないよ!」
という、神と自分をつなぐ聖なる声が耳に入らない。
いや、入れようとしない。
なぜなら、どちらも、罪だ、苦だと言いながらも、その実、
「そのコップ、割れたままにしておきたい(神から分離して自分が神でいたい)」
と思っているからだ。
そしてそう思う理由について、『奇跡講座』的自我は、
「罰を受けるのが怖いからだ」
という。
私の自我は、これに対しても、
「なんでかな」
という。
なんでか知らないけど、片付けたくない。このまま割っておきたい。
ときどきキラキラ光って、ちょっと綺麗だからかもしれない。
<わからない>
ときどきキラキラ光って綺麗だからと、うかうか破片を眺めていたら、私は本当に追い詰められてしまった。破片もまったく光らなくなった。ただの危険ゴミだ。
なんで割れたか、なんで片付けたくないのかわかないと、ぐるぐるしているうちに、ついに、
「生きている意味がわからない」
と言い始めた。
もう、何もかもがわからない。
こうなったら、
聖なる声の、
「割れてないよ!」
という言葉を聞くしかないのだが、
「そういう目に見えないものは、わからない」
と言い続けてきた私には、その声も聞こえなかった。
しかしさすがの私も、心のどこかで、
「これはまずい」
と思ったのだろう。たぶん。
そしてようやく私に聞こえた声は、かつての宣教師のように、外国語訛りの声だった。
「アナタハ神ヲ信ジマスカ?」
「ど、どちらさま?」
「聖霊デス」
<聖霊 その1.>
「神はいる」
「愛はある」
と、はっきりと言い切るこの押しの強い声にも、私は、
「神とか愛とか、わからない」
と対抗してみたが、その声は、引かなかった。
「このテキストを読んで、赦しを実践すればわかります。ここにわかるように書いてあります。読んで、赦す、これを繰り返せばわかります」
「いえこの本、論理的に見えるけど、前提(神はいる)の正しさが証明できてないですよね」
「では、いないと証明できますか?」
「え?」
「神はいないと、証明できますか?」
「……」
「どちらも証明はできないのです。する必要もないのです」
「でも、神はいる、と、つまり、りんごがある、みたいに言うのも、なんか違う気がしませんか?」
「もちろん違います。でも、いるか、いないか、というなら、いるのです」
「えー、なんかよくわからない」
「あなたはいるんですか?」
「え、いますよ?……あ、いません、いないんだったわ」
「そういうことです。いないけどいるんです。あなたがいるのなら、神はいません。あなたがいないのなら、神はあなたと一緒にいます」
「うーん」
「そもそも言語で表現できないことを、言語で解析しても意味はないんです。それより神はいないと言い張ってここまでやってきて、今、そんなに辛いのなら、いるという方に賭けてみても良いのではないですか」
「でも、いないものをいると信じて、人生を賭けて、変な方向に行ったら」
「あなたそれ以上、変な方向に行けるんですか?」
「……(けっこう、一杯一杯)」
「信じてごらんなさい。あなたにはわからないことをわからないと認めて、わかりたいと願う、それを信仰っていうんです」
宣教師みたいな聖霊は、根気強く私を説得した。
<聖霊 その2.>
彼はキリスト教の言葉を使うし、耳慣れないくらいに論理的なので、日本人である私には合わないと思うことも多かった。
「御父はあなたを愛しています」
「いや、なんかその、愛していますっていうのがこう、肌に合わないっていうか」
「『月が綺麗だね』とでも言えば肌に合うんですか」
「いや、それはちょっと意味が違います。でもまあ、それもそうなんです、愛っていう言葉が、ちょっとフワッとしてるんですよね、文学的というか、エンタメ的というか。現実の生活のレベルで使わないんで」
「あなたが昭和生まれだからじゃないですか」
「でも、それよりは御父って人じゃないのに、人じゃないものに愛されるって、ありえないっていうか」
「じゃ、あなたは人なんですか」
「いえ、違います、神の子です」
「じゃあ、いいじゃないですか。神は神の子を愛してるんです。何がいけないんですか」
「神が主語に立つのが嫌なんです。神は、人間みたいなことをしないっていうか」
「もちろんしません」
「でしょ?神はレベルが違うので、愛するとか愛されるとかっていう親交は起こり得ないというか」
「神と神の子はレベルが違うのですか」
「違いません」
「あなたは……」
「神の子ですね」
「じゃあ、いいじゃないですか。御父と存分に親交を深めてください」
「(……なんかケムに巻かれてないか?)」
<コップは割れてない その1.>
それでも彼の説明は、神がいる、というところだけ、エイッと飲み込んでしまえばわかりやすかったし、出家しろとか何時間も座禅しろとか菜食しろとかお酒はダメとか言われなかったので、
「これならなんとかついていけるかも」
と思った。
それでもやはり現実に行き詰まり、恐怖を選択し続けてしまうと、聖霊の声に対してこう言いたくなる。
「私は御父を裏切ってない。私の罪悪感は聖霊の言う罪悪感とは違う。私は罪悪感があって怖いから帰らないんじゃないんです、なんで自我になってるのかわからないから、帰れないんです!自我になった原因が違うんですよ。私の『奇跡講座』の学びが進まず、赦しが進まないのは、そこんとこが違うからなんじゃないかと思うんですよ」
「だからそれは物語だって言ってるでしょう。あなたはわからなくて良いことを、わからないって言ってるんです。私が言ってるのは、自我であるあなたはいない、ということです。自我になってなんかないんだから、どうやって自我になったかは、どうでもよろしい」
「えー」
「いいですか、コップは割れてないんです。誰かが割ったか、自然に割れたかはどうでもよろしい。割れてないんです。なんであなたは大事なところはわからないと言って曖昧にするくせに、そういうどうでもいところだけ、論理的になろうとするんですか」
「……」
「コップは割れてない。それなのに『コップが割れている、なんでだろう』って座り込んで泣いてるのは誰ですか」
「私です」
「そうです、大体、あなた以外に誰もいないんですから」
「それもそうですね」
「もしあなたが、今の分離の状態から抜け出したいなら……私の言葉で言えば、天国に帰りたいなら、あなたがすることは、コップが割れた原因について考えることや、なんでコップを割れたままにしておきたいんだろうと考えることじゃありません。
コップは割れていないという私の声を聞くこと、コップは割れていないというところから物事を見直すことです」
「えー、わかんな……」
「そのままでいいんですか」
「……」
「そのまま自我として、この世界を回し続けていく気力があるんですね」
「ないです、ごめんなさい」
<コップは割れてない その2.>
「あなたにはいくつかの選択肢もありました。
もしあなたが、自然崇拝の多神教徒的な日本人としてのアイデンティティを全うするなら、自然の美しさの中に神の愛を見て、そのまま溶けていけたでしょう。
インド哲学の複雑さに怯まず、かつ瞑想と修行に励めば、『ない』の向こう側の真理に触れることができたでしょう。
でもあなたが、両方ともわからないっていうから、中途半端に西洋的物質主義を信じてきて、目に見えるものしか信じないと言い張ったあなたに、私がこうやって、西洋的学問である心理学を駆使しつつ、あなたが受けた、本来の国語的ではない国語教育の基盤である西洋的『ある』『ない』の論理を使って、説明してるんです。あなたにはこれしか武器がないんですよ。
あなたが疑問に思っていること、つまりコップはなぜ割れたのか、なぜ割れたままにしておきたいのか、これはあなたが神の愛になればわかることです。
もっとも、わかるというのは、あなたが思っているわかるではありませんけどね」
「それは、どういう……」
「だからそれは、必要ないって言ってんでしょうが!」
「はあ、でもせめて、なんで『自我になっているかわからない』と思うのか、その理由だけでも納得したいなと……」
「それがわかったら、赦すんですね」
「前向きに善処します」
「それ、自然の摂理に対する敬意をすっかり失った近代日本人の、ただ無責任なだけの性質をよく表した返答ですよね。
しょうがないなあ、じゃ、ちょっと回り道になっちゃうけど、少し自分の国の信仰の体系がどうなってるか勉強なさい。自分の足元がきちんとしていれば、それが物差しになって、相手と何がどう違うのかわかるでしょう。そもそもあなたはぼんやりと日本人やってるから、そっちも曖昧なんですよ。
この本とこの本を読みなさい。あと、テレビはこれとこれを見て。あ、この人と話しなさい、あとこのブログ……」
「多い……こんな難しいのわかんない……」
「そのままでいいんですね。そのまま自我として、この世界を回していく気力があるんですね」
「……やります、教えてください」
今、こんな感じです。
最後に
私の長い愚痴にお付き合いいただき、ありがとうございました。
恥ずかしながら、ろくな学びをせずにいい歳になり、歴史も文学も、そして哲学にも宗教にもほとんど興味がないまま、『奇跡講座』という分厚い本に導かれることになり、七転八倒した十数年でありました。
付け焼き刃の学びを付け焼き刃にまとめた自覚はありますが、自分としては、『奇跡講座』に対する(かなり強烈な)違和感について、学びの誤解なのか、文化的土台の違いなのかを整理することができ、少しすっきりした気持ちです。
人目に晒すこともないだろうという気もしたのですが、最初にも書いたように、何人かの友人に中途半端にしゃべり散らしてしまったこと、また、もしかしたら、どなたか同じような違和感を感じていらっしゃる方がいれば、一緒に学びを深めていくきっかけにもなるかと思い、思い切ってアップしてみることにしました。
何かお気づきの点があれば、ご指摘いただければ幸いです。
どの教えも同じですが、『奇跡講座』も、その教義の解釈は、実践を伴わなければ全くの無意味です。これからも聖霊を選ぶための訓練を続けて行こうと思います。
まとめ ⑥<聖霊とは私である>
<聖霊とは私である>
そして聖霊とは、
「分離は起きていない、私は無辜である」
という正しい自己認識の、私である。
分離を信じ、自分と体を同一化させた私は、この体を存続させるために、罪を冒し続けなければならない。これを何とかするには、自分は体ではない、という、新しい自己概念が必要になる。
聖霊は、その自己概念である。
私の中には、そして誰の中にも、その自己概念の記憶が存在している。
それは世界を見て美しいと思い、兄弟を愛おしいと思う私だ。
そして私は、聖霊的自己概念を選ぶことによって、体ではない自分として振る舞うことができる。この一瞬に分離を選択せずに、愛を選択することができる。そしてその選択の積み重ねが、私の自己概念を少しずつ聖霊的自己概念に寄り添わせていく。
まとめ ⑤<本心>
<本心>
さて、そういう状況が整った時に、ようやく、自分の本心に気づくことになる。
恐怖を選ばないという、ただそれだけのことができない。
ほんっとうにできない。
訓練されていない心は、脊髄反射で恐怖を選ぶ。選び続ける。
遥か太古の遥か彼方での分離の責任は知らないが、今、この瞬間、私は分離を選んでいる。この世界を作っている。
そして、今、ここしかないという事実を思い出し、痛感する。
ああ、私は、帰れないんじゃない、帰りたくないんだ。
それでも私としては、帰りたくない理由も、『奇跡講座』が父的神を誤創造した自我に対して説明するように、
「神の罰が怖くて帰りたくない」
のではない、と思う。
私の自我としてのプログラムが、
「帰りたくないようになっている」
と言いたい。生き物は利己的に遺伝子を残そうとする。そのように私の体は、プログラミングされており、私の心はそのプログラミングに従って意志決定をする。
プログラミングされている? 誰に?
「えー、わからない」
と言いたいが、世界には私しかいない。
しかし、それならそれでなおのこと、もう自我である自分ではどうにもならないことが身に沁みる。もう理由なんてどうでもいい。
「聖霊……これ以上文句は言いません。助けて!」
まとめ ④<神の子として立ち上がる>
<神の子として立ち上がる>
そして1項目目、「御父がわからない」。
私は、超越的な存在に関しては、仏教的な「ない」で語るのに慣れているので、神を実在するかのように語られることに違和感があり、
「なんか嘘くさい」
と感じる。
また私にとっての神とは、母的神であり、私を含む自然そのものの投影である。
自然と私は別個に、つまり対象として存在しないし、自然が私に向かって「愛している」と言ったりしない。
なので、父的神の訂正として描かれる『奇跡講座』の御父に、
「御父は神の子を愛している」
と言われても、なんだかピンとこない。
しかし、西洋的な「ある(いる)」「ない」の論理で神を語るなら、神は「いる」と断言されなければならないし、その神は、神に対して自己を立ち上げた自我に一対一の対等性を投影されている。その訂正として描かれる『奇跡講座』の御父が、神の子と人間的に言語的でコミュニケートし、「愛している」と語りかけることも自然な流れだ。
そして私が、母的神の子としての自我意識を持ちながら、父的神の子の訂正の物語である『奇跡講座』で、神との分離を解消しようとするのなら、私は、母的神と父的神が共に投影による誤創造の神であることを認め、『奇跡講座』の御父を、投影が訂正された本当の神、自分の源の象徴として受け入れる努力をしなければならない。
そのためには母的神の子の特徴である受動的・被害者的態度を改め、この世界が自分の責任において成り立っていることを引き受けなければならない。
世界はない、自然もない、私しかいない、ということを受け入れ、帰れない、わからないとどこかの何かに責任転嫁をする姿勢を改め、父的神の子のように、自己に対する責任を持って御父の前に立たなければならない。
それは具体的には、自分にはすべての場面で愛か恐怖かを選ぶことができる力がある(逆にそれしかない)、ということを受け入れることだ。
恐怖を選ばず、愛を選ぶと決断すれば、聖霊がその決断を全面的に支持してくれる。
このシステムを受け入れれば、私はもう無力な被害者ではない。
御父とは感覚的にはほぼ初対面だが、御父はとにかく全力で、
「愛してるよ!」
と繰り返し語ってくれる。
最初は、
「知らないおじさんに、愛してると言われても困る」
というひねくれた感覚しかなかったが、決断の場面に直面し、世界が、自分の人生が、この決断にかかっているという重みに、
「うううう」
とと唸ったり、
「この決断は、恐怖を選んでいないだろうか」
と不安になったりするたびに、次第に御父のその言が、選択する私を信頼し、存在を肯定し、支えているという意味なのだということがわかるようになった。
「愛してるって、そういうことなのか」
と、ようやくこの言葉の意味が、分かりかけてきた気がしている。
まとめ ③<帰れない>
<帰れない>
そして2項目目の「罪悪感がわからない」
私の自我の物語は、分離後から始まっており、それ以上遡ることはしない。
そして日本人ぽく、わからないことはそのまま受け入れる。
なので『奇跡講座』的な分離前の物語を語ることは、たとえそれ自体が一種の神話であり、比喩であっても、私にとっては罪悪感の捏造という感覚になる。だから私は『奇跡講座』的に罪悪感という言葉を使うとき、妙に偽悪的に感じる。
私にとって罪悪感に相当する感覚は、生き物ゆえの、生きたいという欲であり、その欲を満たすために他者から愛や物を奪おうとする(欠乏の感覚を投影する)業である。これは止めたくても止められない。生き物は、そういうふうになっている。
しかしこれは罪ではなく、苦なのだ。
そしてこれほどの苦しみを味わう私は、きっと自分には想像もつかないような罪を犯したのだろうと想像するが、この罪の感覚は、『奇跡講座』でいう罪悪感ではない。罪悪感とは自分が犯した罪に対して感じる気持ちのことだ。私が感じる罪の意識は、
「なんだかわからないけどごめんなさい、申し訳ないです」
という、憐れみを乞う気持ちなのだ。
つまり自分が犯した罪の罪悪感ゆえに、罰せられることを恐れて神の元に帰らないのではなく、自分には理解不可能である深い罪を負っているがゆえに、悪因悪果を重ね、分離を続ける自分を止めることができず、帰ることができないのだ。
私という自我はどこまでも、
「わからないからどうしようもない」
という論理でできている。
おそらく私が言いたかった一番の愚痴は、これなのだと思う。
「帰りたくないんじゃない、帰れないんだ!」
しかし、だからなんだというのだろう。
帰らないも帰れないも、自我の意識の言い分で、自我の意識は『奇跡講座』的にも私的にも、存在しない。存在しないものは、正しくもないし間違ってもいない。
では『奇跡講座』は、神を裏切った私、という物語を語ることで、私に何を言おうとしたのか、ということだけに意識を払えばいい。
つまり、分離は起きていない。
私は無辜である。
ということだ。