まとめ ④<神の子として立ち上がる>
<神の子として立ち上がる>
そして1項目目、「御父がわからない」。
私は、超越的な存在に関しては、仏教的な「ない」で語るのに慣れているので、神を実在するかのように語られることに違和感があり、
「なんか嘘くさい」
と感じる。
また私にとっての神とは、母的神であり、私を含む自然そのものの投影である。
自然と私は別個に、つまり対象として存在しないし、自然が私に向かって「愛している」と言ったりしない。
なので、父的神の訂正として描かれる『奇跡講座』の御父に、
「御父は神の子を愛している」
と言われても、なんだかピンとこない。
しかし、西洋的な「ある(いる)」「ない」の論理で神を語るなら、神は「いる」と断言されなければならないし、その神は、神に対して自己を立ち上げた自我に一対一の対等性を投影されている。その訂正として描かれる『奇跡講座』の御父が、神の子と人間的に言語的でコミュニケートし、「愛している」と語りかけることも自然な流れだ。
そして私が、母的神の子としての自我意識を持ちながら、父的神の子の訂正の物語である『奇跡講座』で、神との分離を解消しようとするのなら、私は、母的神と父的神が共に投影による誤創造の神であることを認め、『奇跡講座』の御父を、投影が訂正された本当の神、自分の源の象徴として受け入れる努力をしなければならない。
そのためには母的神の子の特徴である受動的・被害者的態度を改め、この世界が自分の責任において成り立っていることを引き受けなければならない。
世界はない、自然もない、私しかいない、ということを受け入れ、帰れない、わからないとどこかの何かに責任転嫁をする姿勢を改め、父的神の子のように、自己に対する責任を持って御父の前に立たなければならない。
それは具体的には、自分にはすべての場面で愛か恐怖かを選ぶことができる力がある(逆にそれしかない)、ということを受け入れることだ。
恐怖を選ばず、愛を選ぶと決断すれば、聖霊がその決断を全面的に支持してくれる。
このシステムを受け入れれば、私はもう無力な被害者ではない。
御父とは感覚的にはほぼ初対面だが、御父はとにかく全力で、
「愛してるよ!」
と繰り返し語ってくれる。
最初は、
「知らないおじさんに、愛してると言われても困る」
というひねくれた感覚しかなかったが、決断の場面に直面し、世界が、自分の人生が、この決断にかかっているという重みに、
「うううう」
とと唸ったり、
「この決断は、恐怖を選んでいないだろうか」
と不安になったりするたびに、次第に御父のその言が、選択する私を信頼し、存在を肯定し、支えているという意味なのだということがわかるようになった。
「愛してるって、そういうことなのか」
と、ようやくこの言葉の意味が、分かりかけてきた気がしている。