とある日本人『奇跡講座』学習者の困惑

『奇跡講座』は難しい、でも楽しい!

まとめ ②<『奇跡講座』は、「ある、ない」で語る非二元論だ>

<『奇跡講座』は、「ある、ない」で語る非二元論だ>

 

まず最初に、3項目目に取り上げた、「『奇跡講座』は非二元論なのか」という問題から。

私は『奇跡講座』が非二元論であることに自信が持てなかったが、その違和感の原因は、「ない」だけで語る仏教と、「ある、ない」で語る『奇跡講座』との論法の違いであるということで、私は納得した。

 

そして信仰と論理の両輪で理解を進めていくべき問題に対して、論理的な理解だけで押し切ろうとすると、ドツボにハマりやすい、ということにもだいぶ懲りた。

 

さらに、『奇跡講座』以上に仏教を理解していないことにも気づいた。

仏教は、「ある、ない」よりもさらに緻密な論理構造で語られている。

私が理解している日本の仏教のように、ふんわりと南無阿弥陀仏と、言っていればいいという訳ではない(日本の仏教だってそんなことは言ってないはずなのだが、私には伝わってこなかった)。

仏教を含むインドの論理学は、本来、わからないことを受け入れることで、わかることをアップグレードしていく論理なのだと思うが、その先を追求しない人間は、わからないまま放置されやすい。そして私も、わからないまま放置され、わからないことは、まあ、そうなっているのだろうと、受け入れてしまった。

この、

「(ものごとが)そうなっている」

という感覚、そしてそれをそのまま受け入れてしまう感性は、我ながらとても日本人ぽいと思う。日本語が、その状態を表す述語を中心として言葉で、述語に対する主語(行為者)がいなくても成り立ってしまうのは、日本人の思考傾向の表れだ。