3.非二元論ってなんなの? ⑧<結局は、信仰心>
<結局は、信仰心>
さらにもう一つ、私が純粋な非二元とはなんだとか、『奇跡講座』の非二元論を不自然だとか、ぐだぐだと言う理由は、多分これが一番根本的で、ここまでの愚痴の全ての答えなのだが、私の信仰というものに対する姿勢が、世界で一番くらいにぐだぐだだからだ。
信仰がないわけではない。
曖昧にはある。ありすぎるほどある。
神社に行った後にお寺に行って、なんなら教会も行く。
でもそれは、自分の生き方の全てを明け渡し、人生の規範にする、というような全的な信仰ではない。日本人の習性みたいなものだし、
「もしかしたらなんかいいことあるかも、祈っとけ」
くらいの感覚だ。
なにしろ母的神は、母親のごとく気まぐれで、理不尽で、何を考えているのかさっぱりわからないので、普段からなるべく悪いことをしないようにして、神社とかお寺とか、霊験がありそうな木だとか、そういうものを拝んでおこう、そうすれば、何かいいことが転がってくるかもしれない、そういう考えが染み付いている。
私にとっての信仰はその程度だ。
その状態で、全的な信仰について理解しようとするからわからなくなる。