とある日本人『奇跡講座』学習者の困惑

『奇跡講座』は難しい、でも楽しい!

2.分離した覚えはありません  ④<身に覚えのない原罪>

<身に覚えのない原罪>

 

話を戻して、母的神の子である私にとっては、神に対する「罪悪感」という言葉に違和感があるということについて。

 

『奇跡講座』で罪悪感という言葉が選ばれるのは、キリスト教では罪悪感の元になる原罪、つまり「神に対する罪」が語られるからだ。

 

父的神とその子の物語は、唯一絶対神が愛をもって天地と人間を作り、その人間が神を裏切った、という、愛と裏切りの物語である。つまりキリスト教は、自分の生物としての罪深さの理由として、神を裏切ったという物語、つまり原罪を要請する。そして人間は、原罪ゆえに罰せられるという恐怖を神に投影し、愛であった神は、愛と恐怖の偶像の神にすりかわっていく。

『奇跡講座』はこのすり替わったキリスト教を、非二元論的に解体するための物語だ。

 

しかし母的神の子である私の存在の物語は、人間は万物の母から生まれた、という自然発生的な物語だ。そしてそこに私の意志はない。受動的なのである。

そういう物語の中に生まれた私には、母を裏切ったという意識はない。

空や海や大地があって、鳥がいて虫がいるのと同じように、自分がいる。

なぜだか知らないけれど、他の諸々の存在と同じように罪深い生き物として、自分はここにいる。その理由を知っているのは母だけだ。

だから母的神の子は、生き物としての罪深さの理由として、父的神の子のような物語を要請しない。

なので、御父を母に置き換えても、私には原罪の感覚がわからない。

なので原罪を犯したという罪悪感もわからない。