2.分離した覚えはありません ⑤<業>
<業>
では「自然発生的に生まれてしまった」という物語を、自分の存在の物語にしている私にとって、罪悪感に相当する感覚、つまり「生きることの罪深さが自分のあり方に起因するだろうと感じる感覚」は、なんなのか。
母的神の子でありながら、なんちゃって仏教徒である私にとっては、仏教の「業(カルマ)」がしっくりくる(とはいえ、業の定義が大変難しいので、私の「しっくり」が正しいかどうかよくわからない)。
業は本来、行為という意味らしい。
善因善果、悪因悪果、良い行いをすれば良い結果に、悪い行いをすれば悪い結果になる。悪因悪果が重なると、業が深い、という。
そしてこの業は、今の私の行いだけでなく、輪廻転生を重ねたこの身に染み付いているものなので、もう何が原因で何が結果なんだかもさっぱりわからない。とにかくこの世にいる人は大抵、業が深いのだ。いや、業が深いからこの世にいるのだ。
業は、死を恐れる哀れな生き物の、生きることへの抗い難い欲だ。
この業の深さが、我々を真理から、つまりは神から遠ざけていく。
『奇跡講座』的に言えば、この抗い難さは、神を裏切った罪悪感ゆえに、神に罰せられることを恐れているからだ、ということになるが、神を裏切っていない自我にとっては、この抗い難さがなんなのかと考える以前に、そもそもなんでこんな事態になっているのか、さっぱりわからない。
私が神を遠ざけるのではない、私の業が深いから、神が遠ざかってしまうのだ。
では、なんで業が深いのか。そんなこと私にわかるわけもない。
だから母的神の子は、贖罪を求めるのではなく、救済を求める。
「なんとかしてー!」
これでは赦しの主体になりようがない。