2.分離した覚えはありません ⑤<被害者の論理>
<被害者の論理>
手を滑らせて割ったコップに対して、人は二つの言い方をすることができる。
一つは、
「私が、コップを割った」
で、もう一つは、
「コップが割れた」
だ。
前者は、コップが割れたという状態に対して、誰がどのようにその状態を作ったかを言明する。
後者は、ただ目の前の状態を述べただけだ。
前者は、出来事に対して責任を負う態度で、後者は、出来事を受け入れる態度だ。
そして前者はキリスト教徒的であり、後者は多神教徒的なんじゃないかと思う。
キリスト教徒にとって世界は、自己の行動と結果でできている。
だから今いる世界に対しても、御父から自分が分離したことによって自分が作った、という責任を引き受ける態度を取ることができる。
多神教徒にとっては世界は、母的神からたちが作ったものであり、神そのものでもあり、自分もその一部だという認識を持っている。世界に対して受動的な認識に、そしてもし、その自分が生きる苦しみを感じているなら、被害者的な認識になるだろう。
世界に対して行為者としての責任を語るキリスト教的自我は、その物語を解体して神との分離を訂正し、神と一つの状態に戻ろうとする時にも、その自我が責任を引き受けることができる。世界を作ったということが幻想であると認め、父的神のように見えている本当の神に、贖罪を求める。
「私の勘違いでした。訂正してください」
そして父と自分は分離していないということを認め、一つなることで幻想を止める。
『奇跡講座』はこの方法を使っている。
しかし世界に対して受動的な、下手をすると被害者的な認識を持っている多神教的自我には、神々の世界の生成の物語を解体することはできない。世界はそうなっているものであって、それは受け入れるしかない。
そしてそこから抜け出したければ、神に救済を求めるしかない。
「なんだかわからないけど、なんとかしてー!」
この被害者的な自我にも、この世界から脱出するルートはある。
瞑想や修行によって体感的に「空」を知り、自我を崩し、母的神との一体化の感覚を知る方法だ。自分は母から生まれた子ではなく、母の一部であり、また母そのものである、ということを知る。
どうせどちらも自我の物語だから、理論的にはどちらのルートでもいいのだが、問題はその自我が、その物語に、
「ああ、確かに私はそういう物語を生きていた」
という実感が伴うかどうかだ。