2.分離した覚えはありません ③<ついでに『愛している』の問題>
<ついでに『愛している』の問題>
語感ついでに、こちらも取り上げておこう。
罪悪感と同じ感覚で、どうしても慣れないのが、
「神はあなたを愛している」
という、キリスト教の根幹についての語感だ。
初めは
「愛」
という単語が、宗教的な文脈で使われることに対する抵抗感かと思った。
それを一通り受け入れてもなお、まだどうしても、
「ああ、ありがたい」
という気持ちになれない。
「そうですか、それはどうも」
という感じになる。
おそらく母的神は、
「私はあなたを愛している」
とは言わない。
父親が子と、将来的に対等の関係性を目指すのとは違って、母親は子を、自分の所有物として、永遠に庇護下にいるものだと思っている。子に対して、対等な関係性を持とうなどとは、思いもよらない。
同様に母的神と子にも対等な関係性はない。母的神と子は同じレベルの行為者にはならないし、大人の世界と子どもの世界は、言語ではつながらない。
そしてもし言うとしても、
「私はあなたたちを愛している」
と言うだろう。
母的神と子の関係は、一対一ではない。
あまねく偏在する母の愛は、私一人に向けられるものではなく、子どもたち全員に太陽のように注がれる。だからこそ母的神の子が母の愛を一身に受けるためには、その子どもたちすべてと仲良くする(同一化する)ことが必要なのだ。
だから、
「神はあなたを愛している」
という言い方は、私の感覚では”神っぽくない”。
そして、”あなた”と名指されることで、手放したい自我を、あらためて握らされているような感覚になる。