3.非二元論ってなんなの? ②<削り出す>
<削り出す>
純粋な非二元論と、非二元論と、あと不二一元論と、一元論。
これらは同じようなことを言っているような気もするが、なんかそれぞれ言いたいことが微妙に違うような気もする。
少なくとも、りんごとみかんは同じか違うか、というような話にはならないらしい。
なので、純粋な非二元論と、非二元論についてだけ、私の疑問についてのみ、まとめてみようと思う。また私にとっての非二元論は仏教なので、ヒンズーの沼には立ち入らない。
仏教は、基本的に超越的なもの、神とか、天国とか、輪廻とかについては、「ある」と言わない。非二元論的には、そういう存在を「ある」と言うのは禁じ手だ。
しかし『奇跡講座』は、「ある」を使った。
愛だけがある。
そして御父がいる、天国はある。
だがこれは、『奇跡講座』に限らず、大乗仏教も使った手だ。
大乗仏教には、天国に相当する浄土や、御父に相当する如来という概念がある。
しかし、釈迦の教えには、浄土も如来もない。
そう考えると大乗仏教も「純粋な非二元論」と言えるかもしれない。
しかし、私が誤解していた重大なポイントは、浄土や如来を語らないタイプの仏教が、愛があるということを否定している、あるいは無視していると思っていたことだ。
ここで気をつけなければいけないのは、仏教が、愛があるとは言っていないが、愛がないとも言っていない、というところだ。
仏教の原型は、愛があるとは言わない。
超越的な存在も想定しない。
その代わりに、「世界はない」「あなたはいない」「変わらないものはない」と否定を積み重ねていく。それはたぶん、真理や愛や、超越的な存在といったこの世界に属さないものについて、「〇〇がある」と言葉で言った時に、〇〇も、そして「ある」という状態も、正しくそれを指し示さないからだ。
しかしそれは暗黙裡に想定されており、否定の積み重ねは、間違いだらけの認識の中から、それらを削り出すことを目指している。
なぜならそれを語る人たちは、それがあることを「知っている」からだ。
そう考えるとこの切り口からは、純粋な非二元論と非二元論は、表現の仕方は違えど、私たちを連れて行こうとする場所は同じだと言っていいだろう。