とある日本人『奇跡講座』学習者の困惑

『奇跡講座』は難しい、でも楽しい!

3.非二元論ってなんなの?  ③<何かが違う?>

<何かが違う?>

 

『奇跡講座』は、仏教と同じ非二元論だ。

それはそれでいい。私は保守的な自我なので、自分が学ぶ体系が思想史的に伝統的な論理体系であるとわかったほうが、むしろ安心する。

 

しかし、何かが違う……ような気がする。

『奇跡講座』の「愛がある」あるいは「真理がある」「神はいる」と、仏教が言外に示すものやその状態は、なんか違う……ような気がする。

そしてその違いがすごーく気になって、『奇跡講座』が非二元論だという確信が持てない。

 

どう違うかはちょっと置いて、違うと感じる理由として、まず単純に思いつくのが、『奇跡講座』がキリスト教ありきで、それに対する間違った投影を解体するための物語だからだということだ。キリスト教にはもともと愛という実感のともなった概念があるから、愛についての誤解を解けば「正しい」愛が出現する、という言い方になるのは必然だろう。御父についての誤解を解けば、「正しい」御父が、天国についての誤解を解けば、「正しい」天国が出現する。

 

しかし私には、その「ありき」のキリスト教的背景がない。それを実在のものとして信じてきた歴史がない。なので私には、誤解を解いた後に出現する予定の、「正しい」愛や、天国や、御父は、もともとなかったものが、新たに出現するように思える。

突然現れたそれらを、さあ信じろ、と言われても、なんだかとても怪しげに感じる(もちろんそんなふうに感じない人もたくさんいるのは承知している)。

 

「あなたが白くまだと思っていたものは、実はパンダなんですよ。よく見ると耳と目の周りが黒いんです、かわいいでしょう」

と言われた場合に、白クマがイメージできており、白くまの実在を信じていれば、パンダのかわいさもイメージしやすいが、白くまがわからないとパンダのかわいさもいまいちわからないし、可愛さの実感も湧かないと、そういうことを言いたいのだが、伝わるかなあ……。