1. 御父ってどちらさま ⑤<責任者でてこい>
<責任者、出てこい>
では、母的神に私が投影している誕生の物語とは何か。
母的神の子である私は、父的神の子たちのように、自己が確立していない。私は自然の一部として産み落とされ、生きて、死んで、自然の中に返っていき、そしてまた産み落とされる、という循環の物語を生きている。全ては神の計らいによって起こる「出来事(出て来る事)」であって、私の意志はそこにはない。
つまり母的神から発生した自我の物語は、自我の発生に対する責任の所在が不明瞭なのだ。
体としての自分が肉親である母から、自分の意志とは関係なく生まれてきたように、自我の出生に関しても気がついたら自我としてここにいました、という状態を、ただそのまま受け入れている。
そのような物語を語る自我は、『奇跡講座』の自我のように、
「私が、御父から分離して、ここにいます。私の責任です」
とは言わない。
「気がついたらここにいました、なんででしょう」
と言う。
こうなると『奇跡講座』を学ぶ上で、困ったことが起きる。
一つには、自我が無自覚すぎて、赦しの主体になれない。
そしてもう一つ、自分で分離をしたという自覚がないので、『奇跡講座』の罪悪感がわからない。