3.非二元論ってなんなの? ①<純粋な非二元論>
さて、ここまで、
御父がわからない。
そして御父を裏切った記憶がない。
だから罪悪感がわからない。
という愚痴をこぼした。
で、ちょっと話が飛ぶのだが……。
<純粋な非二元論>
『奇跡講座』の特徴は、「純粋な非二元論」であることだと、言われることがある。私もそう思っていた。
純粋な非二元論とは、東洋的な非二元論、特に仏教の「空」あるいは「無」にとどまらず、その向こうに、愛がある、愛しかない、ということを指し示したものだと、私は解釈している。
なので、純粋な非二元論である『奇跡講座』は、非二元論では行けない境地まで行くことのできる、究極の教えなのだ、と思っていた。
しかし「純粋な非二元論」という表現は、ほかではほとんど聞いたことがないし、『奇跡講座』自体は、非二元論、あるいは一元論、と説明されていることも多い。
純粋な非二元論と、非二元論と、あるいは、不二一元論と、一元論は、同じなのか、違うのか。
一応調べてはみたけれど、なんか、わかったようなわからないような……。
2.分離した覚えはありません ⑥<ハイブリッド自我>
<ハイブリッド自我>
私は、地域的には、
「なんだかわからないけど、なんとかしてー!」
と叫ぶ多神教的自我に属する。
しかし多神教徒として無自覚すぎたし、仏教徒としてもあまりにいい加減だった。
そして子どもの頃からの学習の方向性は、キリスト教的だ。
日本的なものはだめで、欧米的なものがいいんだ、という社会的風潮の中で大人になり、おばさんになった。感覚よりも理性を重んじ、物事を論理的に考えるのがいいと思ってきた。また私の持って生まれた性格自体も、必要以上に理屈っぽかったし、感覚的には鈍かった。
ところが、この論理性も中途半端なのだ。
そもそも日本人の思考は、そしてそれを支える日本語は、合意と調和を求めるためにあり、根本的に論理には向いていない。その上、その論理の根本にある神への信仰が欠落しているので、日本人の論理には力がない。
つまり私は、キリスト教的自我と多神教的自我のハイブリッドで、両方に中途半端に接しているのでどちらにも共感できないが、あえて言えば、多神教徒的自我の方には多少の感覚的馴染みがあり、思考的にはキリスト教的自我に馴染みがある。
2.分離した覚えはありません ⑤<被害者の論理>
<被害者の論理>
手を滑らせて割ったコップに対して、人は二つの言い方をすることができる。
一つは、
「私が、コップを割った」
で、もう一つは、
「コップが割れた」
だ。
前者は、コップが割れたという状態に対して、誰がどのようにその状態を作ったかを言明する。
後者は、ただ目の前の状態を述べただけだ。
前者は、出来事に対して責任を負う態度で、後者は、出来事を受け入れる態度だ。
そして前者はキリスト教徒的であり、後者は多神教徒的なんじゃないかと思う。
キリスト教徒にとって世界は、自己の行動と結果でできている。
だから今いる世界に対しても、御父から自分が分離したことによって自分が作った、という責任を引き受ける態度を取ることができる。
多神教徒にとっては世界は、母的神からたちが作ったものであり、神そのものでもあり、自分もその一部だという認識を持っている。世界に対して受動的な認識に、そしてもし、その自分が生きる苦しみを感じているなら、被害者的な認識になるだろう。
世界に対して行為者としての責任を語るキリスト教的自我は、その物語を解体して神との分離を訂正し、神と一つの状態に戻ろうとする時にも、その自我が責任を引き受けることができる。世界を作ったということが幻想であると認め、父的神のように見えている本当の神に、贖罪を求める。
「私の勘違いでした。訂正してください」
そして父と自分は分離していないということを認め、一つなることで幻想を止める。
『奇跡講座』はこの方法を使っている。
しかし世界に対して受動的な、下手をすると被害者的な認識を持っている多神教的自我には、神々の世界の生成の物語を解体することはできない。世界はそうなっているものであって、それは受け入れるしかない。
そしてそこから抜け出したければ、神に救済を求めるしかない。
「なんだかわからないけど、なんとかしてー!」
この被害者的な自我にも、この世界から脱出するルートはある。
瞑想や修行によって体感的に「空」を知り、自我を崩し、母的神との一体化の感覚を知る方法だ。自分は母から生まれた子ではなく、母の一部であり、また母そのものである、ということを知る。
どうせどちらも自我の物語だから、理論的にはどちらのルートでもいいのだが、問題はその自我が、その物語に、
「ああ、確かに私はそういう物語を生きていた」
という実感が伴うかどうかだ。
2.分離した覚えはありません ⑤<業>
<業>
では「自然発生的に生まれてしまった」という物語を、自分の存在の物語にしている私にとって、罪悪感に相当する感覚、つまり「生きることの罪深さが自分のあり方に起因するだろうと感じる感覚」は、なんなのか。
母的神の子でありながら、なんちゃって仏教徒である私にとっては、仏教の「業(カルマ)」がしっくりくる(とはいえ、業の定義が大変難しいので、私の「しっくり」が正しいかどうかよくわからない)。
業は本来、行為という意味らしい。
善因善果、悪因悪果、良い行いをすれば良い結果に、悪い行いをすれば悪い結果になる。悪因悪果が重なると、業が深い、という。
そしてこの業は、今の私の行いだけでなく、輪廻転生を重ねたこの身に染み付いているものなので、もう何が原因で何が結果なんだかもさっぱりわからない。とにかくこの世にいる人は大抵、業が深いのだ。いや、業が深いからこの世にいるのだ。
業は、死を恐れる哀れな生き物の、生きることへの抗い難い欲だ。
この業の深さが、我々を真理から、つまりは神から遠ざけていく。
『奇跡講座』的に言えば、この抗い難さは、神を裏切った罪悪感ゆえに、神に罰せられることを恐れているからだ、ということになるが、神を裏切っていない自我にとっては、この抗い難さがなんなのかと考える以前に、そもそもなんでこんな事態になっているのか、さっぱりわからない。
私が神を遠ざけるのではない、私の業が深いから、神が遠ざかってしまうのだ。
では、なんで業が深いのか。そんなこと私にわかるわけもない。
だから母的神の子は、贖罪を求めるのではなく、救済を求める。
「なんとかしてー!」
これでは赦しの主体になりようがない。
2.分離した覚えはありません ④<身に覚えのない原罪>
<身に覚えのない原罪>
話を戻して、母的神の子である私にとっては、神に対する「罪悪感」という言葉に違和感があるということについて。
『奇跡講座』で罪悪感という言葉が選ばれるのは、キリスト教では罪悪感の元になる原罪、つまり「神に対する罪」が語られるからだ。
父的神とその子の物語は、唯一絶対神が愛をもって天地と人間を作り、その人間が神を裏切った、という、愛と裏切りの物語である。つまりキリスト教は、自分の生物としての罪深さの理由として、神を裏切ったという物語、つまり原罪を要請する。そして人間は、原罪ゆえに罰せられるという恐怖を神に投影し、愛であった神は、愛と恐怖の偶像の神にすりかわっていく。
『奇跡講座』はこのすり替わったキリスト教を、非二元論的に解体するための物語だ。
しかし母的神の子である私の存在の物語は、人間は万物の母から生まれた、という自然発生的な物語だ。そしてそこに私の意志はない。受動的なのである。
そういう物語の中に生まれた私には、母を裏切ったという意識はない。
空や海や大地があって、鳥がいて虫がいるのと同じように、自分がいる。
なぜだか知らないけれど、他の諸々の存在と同じように罪深い生き物として、自分はここにいる。その理由を知っているのは母だけだ。
だから母的神の子は、生き物としての罪深さの理由として、父的神の子のような物語を要請しない。
なので、御父を母に置き換えても、私には原罪の感覚がわからない。
なので原罪を犯したという罪悪感もわからない。
2.分離した覚えはありません ③<ついでに『愛している』の問題>
<ついでに『愛している』の問題>
語感ついでに、こちらも取り上げておこう。
罪悪感と同じ感覚で、どうしても慣れないのが、
「神はあなたを愛している」
という、キリスト教の根幹についての語感だ。
初めは
「愛」
という単語が、宗教的な文脈で使われることに対する抵抗感かと思った。
それを一通り受け入れてもなお、まだどうしても、
「ああ、ありがたい」
という気持ちになれない。
「そうですか、それはどうも」
という感じになる。
おそらく母的神は、
「私はあなたを愛している」
とは言わない。
父親が子と、将来的に対等の関係性を目指すのとは違って、母親は子を、自分の所有物として、永遠に庇護下にいるものだと思っている。子に対して、対等な関係性を持とうなどとは、思いもよらない。
同様に母的神と子にも対等な関係性はない。母的神と子は同じレベルの行為者にはならないし、大人の世界と子どもの世界は、言語ではつながらない。
そしてもし言うとしても、
「私はあなたたちを愛している」
と言うだろう。
母的神と子の関係は、一対一ではない。
あまねく偏在する母の愛は、私一人に向けられるものではなく、子どもたち全員に太陽のように注がれる。だからこそ母的神の子が母の愛を一身に受けるためには、その子どもたちすべてと仲良くする(同一化する)ことが必要なのだ。
だから、
「神はあなたを愛している」
という言い方は、私の感覚では”神っぽくない”。
そして、”あなた”と名指されることで、手放したい自我を、あらためて握らされているような感覚になる。
2.分離した覚えはありません ②<語感の問題>
<語感の問題>
罪悪感のわからなさの理由の一つには、罪悪感という言葉に対する違和感がある。
罪悪感というのは、犯してしまった罪に対する感覚のことだ。
そして母的神の子である私としては、神に対して禁を犯すことはあっても、罪を犯すことはできない感じがする。
父的神と神の子の間には、人間らしい(?)関係性がある。対等ではなくても言語でコミュニケーションが取れる。例えて言えば父と小学生、くらいのイメージだ。逆に言えば、だからこそ父の言いつけに背くとか、父に対して反抗する、というようなことも考えうる。
しかし母的神と子は、イメージ的には母と保育園児くらいだろうか、コミュニケーションが取れない。大人の世界と保育園児の世界はルールが違う。母に対して逆らっても、
「あら、今日はご機嫌が悪いのね」
と、逆に心配されるのがオチだし、お砂場でお友だちのシャベルを奪い取っても、「やってはいけないこと」をやってしまったので、叱られるだろうが、それは罪ではない。