とある日本人『奇跡講座』学習者の困惑

『奇跡講座』は難しい、でも楽しい!

まとめ ②<『奇跡講座』は、「ある、ない」で語る非二元論だ>

<『奇跡講座』は、「ある、ない」で語る非二元論だ>

 

まず最初に、3項目目に取り上げた、「『奇跡講座』は非二元論なのか」という問題から。

私は『奇跡講座』が非二元論であることに自信が持てなかったが、その違和感の原因は、「ない」だけで語る仏教と、「ある、ない」で語る『奇跡講座』との論法の違いであるということで、私は納得した。

 

そして信仰と論理の両輪で理解を進めていくべき問題に対して、論理的な理解だけで押し切ろうとすると、ドツボにハマりやすい、ということにもだいぶ懲りた。

 

さらに、『奇跡講座』以上に仏教を理解していないことにも気づいた。

仏教は、「ある、ない」よりもさらに緻密な論理構造で語られている。

私が理解している日本の仏教のように、ふんわりと南無阿弥陀仏と、言っていればいいという訳ではない(日本の仏教だってそんなことは言ってないはずなのだが、私には伝わってこなかった)。

仏教を含むインドの論理学は、本来、わからないことを受け入れることで、わかることをアップグレードしていく論理なのだと思うが、その先を追求しない人間は、わからないまま放置されやすい。そして私も、わからないまま放置され、わからないことは、まあ、そうなっているのだろうと、受け入れてしまった。

この、

「(ものごとが)そうなっている」

という感覚、そしてそれをそのまま受け入れてしまう感性は、我ながらとても日本人ぽいと思う。日本語が、その状態を表す述語を中心として言葉で、述語に対する主語(行為者)がいなくても成り立ってしまうのは、日本人の思考傾向の表れだ。

 

まとめ ①<立ち位置を決める>

そろそろ愚痴のまとめに入ろう。

 

<立ち位置を決める>

 

父的神と子の関係は、超越的存在と、それを裏切った私という物語で存在している自我との関係である。

この自我は、父親に対する子のように、一人前の存在として自己を立ちあげている。

だから『奇跡講座』は、一度立ち上がった自己に、

「あなたは神を裏切っていない」

ということ教え、その自己の責任において、神に対する恐怖を訂正させ、本来の、神と一つの神の子に同化させていく。

 

母的神と子の関係は、超越的存在(自然)と、その一部である私という物語で存在している自我との関係である。

この自我は、母に対する子のように、母との一体感を持っており、母との境界が曖昧だ。しかし、完全に一体であるという認識はない。中途半端な自我である。

父的神を誤創造し、自己を立ち上げた状態から自我が始まる『奇跡講座』の側からいうと、この状態は分離の後の二次的な解離になるが、母的神を誤創造する自我の側から言うと、立ち上げ以前の遊離の感覚だろうか。

このような曖昧な自我が、仏教的な空の思想に出会うと、

「あなたは産まれていない、あなたも、あなたを産んだ母も(つまり自然も)存在していない」

と教えられる。

 

私はこの両方を中途半端に、しかも(宗教的にも文化的にも)体験ではなく、知識だけで齧ってしまったので、どちらも「根拠がない」と感じた。そして、御父につながるための糸口である、父的神も母的神も見失った。

私の自我は、自分が抱える生きづらさに対して分離の責任を引き受け、赦しを乞うほど成熟していなかったし、ただ泣きじゃくって救いを求めるほど素直でもなかった。

 

 

だからと言ってそのままにしておくと、私はただの自我で終わってしまう。

それは困る。

それに懲りたから、こんな面倒なことを学んでいるのだ。

では、どちらの立ち位置を取るかとあえて言われるなら、まずは、母的神と子の関係の側に立つしかない。

神を裏切ったという「冤罪」を無理に信じるくらいなら、まだ、

「私は母的神から生まれたと錯覚している」

ということを受け入れる方が自然に思える。

 

だとすれば私は、この感覚から『奇跡講座』を、理解し直すしかないだろう。

最初に提示した三項目の『奇跡講座』に対する戸惑いは、互いに関連している。

ざっと見渡したところから、改めて問題点と解決策を見直してみようと思う。

4.聖霊ってなんなの ④<聖霊と仏性>

聖霊と仏性>

 

聖霊とは自分のことであり、聖霊を選ぶということは、自分に対する概念を変えるということだ。

これを踏まえて、改めて聖霊とは何か。

 

思い起こされるのが、「仏性」である。

仏性とは、Weblio辞書によると、

 

人や生き物の内奥に存在すると考えられるほとけ(仏)としての性質。ほとけになり得る(成仏し得る)素質。

 

だそうだ。

 

『奇跡講座』的に言えば、わたしたちの心に残された、神の子としての記憶のことだろう。そして仏性とはそれを概念化した言葉であり、聖霊とは、その概念を擬人化したものだと言えるのではないだろうか。

 

聖霊も仏性も、「罪のない私」の記憶のよすがである。

そして私は、それを頼りに、もし私に罪がないのなら(もし私がこの体というものに依拠せずに、生も死もなく、永遠なる愛として存在しうるなら)、どのように振る舞うかを知ることができる。そしてそのように振る舞うことによって、私はそのような存在であることを、次第に思い出していく。

4.聖霊ってなんなの ③<聖霊を選ぶということ>

聖霊を選ぶということ>

 

聖霊も私も、実体ではない。概念である。

 

そして私とは、「私とは物質であり、体であり、それが世界から切り取られて独自に存在することができると信じる概念」である。また聖霊とは、「私とは世界全体であり、また、世界全体が、私が存在するという概念によって生じる概念である」ことを知る、概念である。

つまり両方とも私なのだ。

 

聖霊と私は、一つの出来事に対して、二つの別々の自己概念に基づく別々の思考体系に基づき、別々の態度をとる。

私の思考体系、つまり自我の思考体系は、私と世界は分離しているという信念に基づく。だから、自我の思考体系に基づいた態度を取れば、私と世界は分離を強化する。

聖霊の思考体系は、私も世界も概念であり、存在しないという「事実」に基づく。この「事実」は自我的には信じ難いが、実際に物理学の世界で、物質は量子レベルにまで解体され、観察者の介在なしには物質になり得ないということがわかり始めている。聖霊の思考体系に基づいた態度を取れば、私と世界は分離を解消することになる。

 

仏教的には自我的思考体系は利己的思考体系、あるいは悪因悪果の理であり、聖霊的思考体系は利他的思考体系、あるいは善因善果、ということになるだろう。

 

『奇跡講座』から少し逸脱するが、自我的思考体系とは、生き物の、その自己同一化した体から上がってくる、この体を保持したい、生きたいという欲求に基づく、攻撃と防衛の反応の体系である。私の心というものがあって、それが自我を保持し、この体で生きたいと願うのではなく、体からの化学的な反応が、私の中に生きたいという願いを生み、それが心になる。

そして聖霊的思考体系とは、その反応を生み出す体はない、という認識から、自我的思考体系を訂正する体系だ。

そして大事なのは、この二つの体系を思考する概念は、違うレベルに存在するということだ。コインの裏表のように存在するのではなく、別々のコインとして、別々のレベルにある。

つまり、自我的思考体系で思考する私が、『奇跡講座』を学ぶことで、体からの化学反応を振り切って聖霊的思考体系で思考できるようになるわけではない。聖霊を選ぶということは、自分に対する概念を変え、そちらの思考体系に乗り換えるということであり、心を訓練するということは、そこに留まり続けるということだ。

4.聖霊ってなんなの  ②<聖霊も私も概念>

聖霊も私も概念>

 

聖霊がわからない直接的な理由は、母的神の子にとって、その代替になるような概念が存在しないからだと思う。聖霊を精霊と表記する人がいるが、それくらいに曖昧な存在だ。

勉強会やセッションでも、

聖霊って何ですか」

と聞かれることは大変に多い。

それなのにその存在が、『奇跡講座』の実践において、ほとんどの役割を占める。『奇跡講座』を実践するなら、何事も聖霊に聞き、聖霊に委ね、聖霊にお願いすることになる。私の出番などほとんどない。

聖霊に頼ることが全てだ。

 

その聖霊がよくわからないと言いながら、正直、よくもここまで『奇跡講座』を続けてきたものだと思うが、『奇跡講座』に対する疑問が少し解けてきた今、改めて思うところをまとめてみようと思う。

 

まずは、当たり前のことながら、聖霊とは概念であることを確認しておこう。

父的神も、母的神も、そして御父も、自分を人だと思っている私が投影するから、人型や象徴的な動物のイメージになり、人と同じように動作主として表現される。

聖霊も、如来や菩薩も、同様だ。

しかし、当然ながらそれは比喩であり、私が体として存在しないのと同様、神も聖霊も菩薩も形として存在するわけではない。

便宜上、聖霊は私に語りかけ、私を励まし、私を救ってくれるのだが、これはあくまでも私が体として存在すると信じているから、私がそういう表現を必要としているだけだ。

聖霊という実体は、私が体として存在しないこと同じ意味で、存在しない。

ともに概念である。

4.聖霊ってなんなの  ①<聖霊の機能>

さて、ここまでくると、『奇跡講座』が与えられたことについて、感謝こそすれ、文句を言おうという気持ちにはならなくなった。

ところが、最後の難関が残っている。

 

聖霊である。

 

御父もわからないが、聖霊のわからなさも大概だ。

聖霊とはどちらさまなのだろう、いや、なんなのだろう、が正解か?

人なの?鳩なの?蝶なの?(もちろんどれでもない)

 

 

聖霊の機能>

 

聖霊とは何か、という定義は、キリスト教でも大変に難しいらしいが、その機能は、神と子を取り持つことである。

その役割から考えれば、仏教でいうと、衆生の救済を誓ったという如来とか観音とかに当たるのかなと思う。

母的神の子の、

「なんとかしてー!」

という叫びに対する一つの答えとして仏教があり、母と子を取り持つ機能として、阿弥陀さまや観音さまがあるのだろう。

じゃあ、仏教に親和性のある私としては、聖霊と呼ばずに阿弥陀様とか観音様と呼べば気がすむのかというと、残念ながらこちらもよくわかっていない(でも、拝む)。

 

ただ、如来・観音グループは、日本では、

「神さま、仏さま」

と言われるように、神様と同格になっている。インドでもヒンズー教の神々と混ざっているし、そう考えると、こちらは御父と聖霊を合わせたような存在になっているのだろう。そういう意味でも、やはり神とは機能的に区別されている聖霊は、母的神の子にとっては馴染みのない存在だと思う。

 

3.非二元論ってなんなの?  ⑩<ここが始まり>

<ここが始まり>

 

日本人のくせに自然と一体化して溶けていく感性を失い、かといってキリスト教をはじめとする一神教には関心がない。

神との絆は完全に断たれている。

そもそも私の人生が、『奇跡講座』を学ばねばならないところまで追い詰められたのは、ここが始まりだったのではないかと思う。

和魂洋才の「魂」がすっぽりと抜け落ち、中途半端な洋才でできている私(和魂は金にならないが洋才は金になるからだ)に、中途半端ではあっても、せめて残っている洋才。

これだけが私の最後のツールであり、そこに『奇跡講座』が現れた。

 

『奇跡講座』を学ぶうちに、神なしで生きられると思うことがどれほど傲慢なことか、そして聖霊の助けで御父の愛に支えられることがどれほど有難いことか、嫌というほど思い知らされたので、私は、神について、わからないといい、いるとかいないとか(いるとはどういう意味かにおいて)考えたりはしても、いないとは思っていない。

ようやく、「かたじけなさに涙こぼるる」という気持ちに、素直に共感できる気がする。

 

しかし最後に、もう一つ、いるんだかいないんだかきっちりしておきたい存在がある。

 

聖霊だ。