3.非二元論ってなんなの? ⑨<日本人のくせに>
<日本人のくせに>
しかもさらに残念なことがある。
本当は日本人の信仰は、私のように適当ではない。
私がそれを取り落としているだけだ。
なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる
これは日本人の宗教観を表す歌として知られる、西行法師の歌だ。ご本人は別にそんなことを歌ったつもりはなかったと思う。
真言宗の僧侶だった西行が、伊勢神宮で、なんだか知らないけど泣けてくるほどありがたい、と歌うほど、日本人は超越的な存在とのつながりが深い。
この感覚が核にあるから、超越的な存在が、神と呼ばれようとも仏と呼ばれようとも、それが「ある」「いる」ということは疑わない。ものすごく信心深い。
もちろんそれは自分の中にあるということも確信している。
かつての日本人は、自分は自然と一体であり、自我としての個ではないということを体感的に知っていた。
ところが自我的にハイブリッドな私には、その先祖伝来の信心深さが伝わっていなかった。
この歌を非科学的だと感じ、この歌に接したときに、あろうことか、
「なんか適当だなあ」
と思ったのだ。
「愛だけがある」「神がいる」「天国はある」「聖霊はいる」と言われると言い過ぎだといい、「涙こぼるる」と言われると、非科学的だ、適当だ、と私は言う。
「愛がある」というのは、「かたじけなさに涙こぼるる」ということと同じだ。
日本人ならそれがわかるはずなのに、私はなまじ合理的・科学的に考えるのが良いと思っていたので、結果的に両方がわからなくなってしまった。
3.非二元論ってなんなの? ⑧<結局は、信仰心>
<結局は、信仰心>
さらにもう一つ、私が純粋な非二元とはなんだとか、『奇跡講座』の非二元論を不自然だとか、ぐだぐだと言う理由は、多分これが一番根本的で、ここまでの愚痴の全ての答えなのだが、私の信仰というものに対する姿勢が、世界で一番くらいにぐだぐだだからだ。
信仰がないわけではない。
曖昧にはある。ありすぎるほどある。
神社に行った後にお寺に行って、なんなら教会も行く。
でもそれは、自分の生き方の全てを明け渡し、人生の規範にする、というような全的な信仰ではない。日本人の習性みたいなものだし、
「もしかしたらなんかいいことあるかも、祈っとけ」
くらいの感覚だ。
なにしろ母的神は、母親のごとく気まぐれで、理不尽で、何を考えているのかさっぱりわからないので、普段からなるべく悪いことをしないようにして、神社とかお寺とか、霊験がありそうな木だとか、そういうものを拝んでおこう、そうすれば、何かいいことが転がってくるかもしれない、そういう考えが染み付いている。
私にとっての信仰はその程度だ。
その状態で、全的な信仰について理解しようとするからわからなくなる。
3.非二元論ってなんなの? ⑦<too much>
<too match>
いろいろな事情が積み重なり、私は、神秘的なものを断定的に「ある」と表現することに違和感を感じる。
なので私は、『奇跡講座』の表現を過剰だと感じてしまう。
愛や真理や御父や聖霊や天国を、そういう名で呼ぶことが正確ではないと感じ、それらがある、あるいは、いる、と断言されることに懐疑的になり、全体に『奇跡講座』は言い過ぎである、あるいは(不確かなものを「ある」と断言することによって)論理が飛躍していると感じる。
しかしそれは『奇跡講座』が、キリスト教という確固とした概念をベースに、ある、ない、という論理で語られる以上、そういう表現になるのは当然のことだ。
しかも、そもそも神的存在に対して、ずっとふんわりとした理解でお茶を濁してたくせに、ある時点で人生に行き詰まり、自我的判断ではにっちもさっちも行かなくなって、
「神さまって何よ、いるんだかいないんだかはっきりしてよ!」
と絡んだのは、私だったではないか。
だからそんな私にわかるように、『奇跡講座』が、「いる」「いない」で答えてくれたのだ。
神はいる。
あなたはいない。
3.非二元論ってなんなの? ⑥<ふんわりしててほしい>
<ふんわりしててほしい>
『奇跡講座』には『奇跡講座』の、仏教には仏教の背景があって、同じ非二元論でもそれぞれの表現に違いが生じる。
そしてそれとはまた別に、これはもう全く学問的問題ではなく、私の個人的な思い込みなのだが、仏教的非二元論に対しては、
「なんか、はっきりしないけど、そういうものなのだろう」
と、特に疑問も感じず、ふんわりと受け止めてきたという経緯がある。
宗教としての仏教には、文学を通してそこそこ触れてきたし、お寺めぐりも好きだし、葬式だ法事だと、お坊さんに会う機会もあった。しかし哲学としての仏教を学ぶ機会は全く作ってこなかったし、そもそも見えない世界の話なのだから、論理性とか整合性とか考える必要もないと思っていた。
おそらくそういうふんわりとした仏教との関わり方のせいで、私は、非二元論はふんわりしてると思っている(間違いです)。
そのせいで『奇跡講座』で、
「〇〇がある」
とか、
「私という自我が存在する理由は、御父を裏切ったからだ」
とか、物事を断言されると、
「なんか非二元論ぽくない」
と思う(間違いです)。
3.非二元論ってなんなの? ⑤<あるとかないとか>
<あるとか、ないとか>
そしてもう一つ、『奇跡講座』の非二元が、仏教とはどこかが違うと感じてしまう理由として、『奇跡講座』の土壌である西洋的な思考体系と、東洋的な思考体系が違うということが挙げられると思う。
西洋的なロゴスの思考体系では「ある」の反対は「ない」だ。真理も愛も、御父も聖霊も天国も、「ない」でなければ、自動的に「ある」になる。
しかしインド系の思考体系にはレンマなるものがあるそうで、これでは「ある」の反対は「ない」にはならない。その中間、というのがあるらしい。ここは難しすぎて深く突っ込めないのだが、物理的にそこに存在するもの以外については、おそらく「ある」も「ない」も、
「あるんだかないんだか、はっきりしろ!」
ということではなく、
「あるとも言えるしないとも言えるし、それは『ある』をどう捉えるか、『ない』をどう捉えるかによる」
みたいに物事を論じるらしい。
仏教が、「ある」と言わずに「ない」だけで論じられても、虚無にはならない理由は、この辺りにあるんじゃなかろうか。
3.非二元論ってなんなの? ③<何かが違う?>
<何かが違う?>
『奇跡講座』は、仏教と同じ非二元論だ。
それはそれでいい。私は保守的な自我なので、自分が学ぶ体系が思想史的に伝統的な論理体系であるとわかったほうが、むしろ安心する。
しかし、何かが違う……ような気がする。
『奇跡講座』の「愛がある」あるいは「真理がある」「神はいる」と、仏教が言外に示すものやその状態は、なんか違う……ような気がする。
そしてその違いがすごーく気になって、『奇跡講座』が非二元論だという確信が持てない。
どう違うかはちょっと置いて、違うと感じる理由として、まず単純に思いつくのが、『奇跡講座』がキリスト教ありきで、それに対する間違った投影を解体するための物語だからだということだ。キリスト教にはもともと愛という実感のともなった概念があるから、愛についての誤解を解けば「正しい」愛が出現する、という言い方になるのは必然だろう。御父についての誤解を解けば、「正しい」御父が、天国についての誤解を解けば、「正しい」天国が出現する。
しかし私には、その「ありき」のキリスト教的背景がない。それを実在のものとして信じてきた歴史がない。なので私には、誤解を解いた後に出現する予定の、「正しい」愛や、天国や、御父は、もともとなかったものが、新たに出現するように思える。
突然現れたそれらを、さあ信じろ、と言われても、なんだかとても怪しげに感じる(もちろんそんなふうに感じない人もたくさんいるのは承知している)。
「あなたが白くまだと思っていたものは、実はパンダなんですよ。よく見ると耳と目の周りが黒いんです、かわいいでしょう」
と言われた場合に、白クマがイメージできており、白くまの実在を信じていれば、パンダのかわいさもイメージしやすいが、白くまがわからないとパンダのかわいさもいまいちわからないし、可愛さの実感も湧かないと、そういうことを言いたいのだが、伝わるかなあ……。
3.非二元論ってなんなの? ②<削り出す>
<削り出す>
純粋な非二元論と、非二元論と、あと不二一元論と、一元論。
これらは同じようなことを言っているような気もするが、なんかそれぞれ言いたいことが微妙に違うような気もする。
少なくとも、りんごとみかんは同じか違うか、というような話にはならないらしい。
なので、純粋な非二元論と、非二元論についてだけ、私の疑問についてのみ、まとめてみようと思う。また私にとっての非二元論は仏教なので、ヒンズーの沼には立ち入らない。
仏教は、基本的に超越的なもの、神とか、天国とか、輪廻とかについては、「ある」と言わない。非二元論的には、そういう存在を「ある」と言うのは禁じ手だ。
しかし『奇跡講座』は、「ある」を使った。
愛だけがある。
そして御父がいる、天国はある。
だがこれは、『奇跡講座』に限らず、大乗仏教も使った手だ。
大乗仏教には、天国に相当する浄土や、御父に相当する如来という概念がある。
しかし、釈迦の教えには、浄土も如来もない。
そう考えると大乗仏教も「純粋な非二元論」と言えるかもしれない。
しかし、私が誤解していた重大なポイントは、浄土や如来を語らないタイプの仏教が、愛があるということを否定している、あるいは無視していると思っていたことだ。
ここで気をつけなければいけないのは、仏教が、愛があるとは言っていないが、愛がないとも言っていない、というところだ。
仏教の原型は、愛があるとは言わない。
超越的な存在も想定しない。
その代わりに、「世界はない」「あなたはいない」「変わらないものはない」と否定を積み重ねていく。それはたぶん、真理や愛や、超越的な存在といったこの世界に属さないものについて、「〇〇がある」と言葉で言った時に、〇〇も、そして「ある」という状態も、正しくそれを指し示さないからだ。
しかしそれは暗黙裡に想定されており、否定の積み重ねは、間違いだらけの認識の中から、それらを削り出すことを目指している。
なぜならそれを語る人たちは、それがあることを「知っている」からだ。
そう考えるとこの切り口からは、純粋な非二元論と非二元論は、表現の仕方は違えど、私たちを連れて行こうとする場所は同じだと言っていいだろう。