はじめに ③ 違和感の土台
<違和感の土台>
「キリスト教の信仰の経験がない私が、『奇跡講座』がわかるわけないじゃないか」
と、私は思っている。
それなのになんとなくここまで、どうにか『奇跡講座』をやってきたような気分になっているのは、いくつかの理由がある。
日本人的無宗教というのは、宗教心がないということではなく、なんでもありがたく思え、なんでも都合よく信じる、ということだ。
そして本質的には日本古来からの神道の影響で、自然信仰の多神教徒であり、八百万の神が生活に溶け込んでいる。
だから神様が外国からおいでになって、一柱や二柱増えても、全く気にしない。
神社でお宮参りして、教会で結婚式して、お寺でお葬式をする。ご来光も落日も拝むし、ナマハゲやトトロも受け入れる。だから『奇跡講座』も、
「へえ……」
という感じでコレクションの一つにしてしまった。
二つ目は、思想的には仏教徒だということ。
日本の神仏融合の歴史は長く、色即是空空即是色、という仏教系の非二元の思想が根付いている。『奇跡講座』も非二元論だから、ここは文句なく相性がいい。なので、
「世界はない」
と言われると、
「うん、なんか聞いたことある」
という気分になる。
ただし、この仏教も真剣に信仰しているわけではない。そもそも日本の仏教は、極東のどん詰まりで神仏融合した、大変特殊で懐がガバガバに深いものになっている。その上、日本の普通の家庭に生まれた私が触れてきた仏教は、もはや宗教ではない。ゆるーい文化、あるいは慣習だ。
三つ目は、『奇跡講座』を始める前に、ニューエイジのスピリチュアルを齧っていたこと。
この時にやっぱり、
「へえ……」
という感じでコレクションの一つにしてしまった神的概念に、いわゆる「ワンネス」がある。ついでに守護霊とかエンジェルとかソウルメイトとかというのも、それに付随していたのだが、それらはちょっとキリスト教っぽい。スピリチュアルも、キリスト教の一元論的アップデート版なところがあるからだと思うが、私にとっては本家よりもこちらが先になっている。私にとってはこれらの概念が、『奇跡講座』の、御父、キリスト、聖霊などの概念との橋渡しになった。
四つ目は、私が生まれた時代の価値観が、キリスト教的であること。
自称無宗教者で無自覚に多神教徒で何気に仏教徒の私だが、生きることに対して、
「こうするべきだ」
と与えられた価値観は、欧米的だった。
個を尊重し、個性を大切にし、自己の能力を伸ばし、論理的に考え、Yes/Noの二元思考で自分の意見をはっきりと述べ、責任の所在を明確にし、合理的・科学的に世界を分析し、善と悪とを区別し……
文明開化から200年、もはやそれはヨーロッパ中心主義なのだと言われなければ気づかないほど、これらの思想的基準は私にとって目指すべき方向性として認識されていた。
ただし、これがキリスト教的であるということはあまり意識されておらず、その土台となる神への信仰という核心は抜け落ちている。
つまり、神様を信じている人たち(あるいは信じていた人たち)の目指すべきあり方を見本としているが、それを支える神の愛のことは何も知らない。